聖日礼拝説教要旨‘26.3.29

棕櫚の主日・受難週礼拝

 

聖書箇所:マタイ26:36~46

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

 

今日はイエス様が最後にエルサレムに到着された棕櫚の主日になる。エルサレムの群衆もイエス様を喜び迎えたが、同じ群衆が5日後の金曜日にはイエス様を十字架に付けろと狂ったように叫ぶ。大事な受難週の記事の中から、イエス様のゲッセマネの園での祈りの姿を見ていく。

 

Ⅰ.祈り続けられた歩み

イエス様が祈られている姿を最初に記すのは、ヨルダン川で荒野のヨハネから洗礼を受けられた後に祈っておられたことが出てくる(ルカ3:21)。天が開け、聖霊が鳩のような形で降り、神様の御声が響いた「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:22他)。とても美しい光景であった。福音書ではイエス様が朝早くから、夜遅い時間も日課のように祈っておられる姿を見る。弟子を選ぶような特別なことがある時には徹夜で祈られた。イエス様は「わたしと父は一つです。」(ヨハネ10:30)と言われたように、祈られなくても神様とイエス様は一つであった。そのイエス様が父である神様に祈り続けておられた。神様と近いと言えない、神様の御心をどれ程知っているのか、知っていないと言える私たちは、開かれた心で一生懸命に、真実に祈らなくてはならないかを教えられる。

 

Ⅱ.祈って従われた歩み

イエス様の十字架が目の前に近づいているゲッセマネの園での祈りである。時は闇が支配しているかのような夜である。イエス様は園に着かれて「悲しみもだえ始められた。」(37節)、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(38節)、「ひれ伏して祈られた。」(39節)とある。イエス様は嵐を治め、死者をよみがえらせるような力と権威に満ちておられた。その御方が弱々しく、痛みの中で苦しまれている。

イエス様は「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(39節)と祈られた。イエス様は言葉をもって全てを治めることのできる力を持っておられた。罪の赦しを宣告され、悪の力を退けられた。その御方が弱々しく、祈られている。

イエス様が「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(39節)と言われた杯が、どれ程恐ろしく、苦いものであるかをよく知っておられたからである。全ての人の罪と汚れがそこにあり陰府の底まで届くものである。イエス様は「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」(42節)と言われたように、御自身以外に誰もこの杯を飲めるものはいないことをご存知であった。その杯を飲む覚悟を決められた。私たちも祈りを通して、神様の御心を確認し、御心に従う者となる。イエス様が全身全霊で祈られたように、難しいできごとに関しては、それだけ深く、強く祈らなければならないことを知る。

 

Ⅲ.祈り立ち上がる歩み

イエス様は苦しみ、格闘されるような祈りをささげられていた。弟子たちはまどろみ、何も判断できないような状態にいた。私たちは神様に対して無感覚、無感動でいるならば、神様に向かって動き出せない。イエス様は敵対者がやって来るのを悟られて、祈りの場から直ぐに立ち上がられた。

祈ることは立ち上がっていくこと、動き出すことにつながっていく。祈りは心の平安、心の平静と関わっており、そのように静かなものと考えやすいが、私たちを行動へと導くダイナミックなものである。イエス様は祈られていたからこそ、神様の御心を確信して、大胆に行動されたと言える。

イエス様が神様の御心に従って、立ち上がって行かれた道は、全ての人の罪を負って全てをささげられる、イエス様以外に、誰一人歩むことのできない高く険しい道であった。イエス様はご自身が歩んで行かれる道に「さあ、行こう。」と言われた。弟子たちと一緒に祈ることを願われたイエス様、弟子たちに共に行こうと言われたイエス様、御一人で全てはできたことである、誰の助けも必要とされなかったが、私と共にとおっしゃっている。弟子たちは十字架に向かわれるイエス様に、付いて行くことができずにばらばらになってしまう。イエス様は私と共に付いてくるようにと願っておられる。

 

今週私たちは受難週を迎える。十字架に向かわれるイエス様の歩みを、祈りながら日々心に深く覚えよう。祈りながら、イエス様の十字架の苦難、栄光の朝の復活を待ち望んでいく。