ヘブル人への手紙12章1節~3節

(1)こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(2)信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。(3)あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

 人生は戦いである。信仰生活もまた戦いである。しかし信仰生活の戦いには模範となるべき信仰の先輩が数多く存在する。我らはそのような証人に囲まれ、その激励を受けながら信仰生活を走り続けている。その第一人者は救い主イエス・キリストである。(1)
Ⅰ.主イエスは信仰の導き手である。(2)
 飛行機の操縦で最も難しいのは離陸と着陸である。何事にも始まりがあれば終わりがある。その両方がうまく行けば万事良し、と言うことになるのではなかろうか。その最も顕著な例が人生である。かつてイスラエルの民がエジプトを脱出して最初の難関であった紅海を渡る際、それまでイスラエルの部隊の先頭に立っていた神の使と雲の柱は彼らの前から移って後ろに移動した。つまり後から追いかけてくるエジプト人との間に位置したのである。(出エジプト14:19-20参照)。イザヤは「主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52:12b)と言っている。
Ⅱ.主イエスは信仰の完成者である。(2)
 人生について聖書は陸上競技にたとえている。それは短距離ではなくマラソンである。マラソンで大切なことは順位も勿論であろうが、なにより完走することではなかろうか。人生もまた同じである。マラソン選手が厳しい訓練をして競技に臨むように、我らもまた全領域(霊と心とからだ)において鍛えられなくてはならない。主は神であられたのに人間を救うために人となられた。悪魔はイエスをそのコースから外させようとして、荒野における誘惑をはじめ、最後の十字架上にまでも誘惑の手を差し伸べてきた。しかし主はあらゆる誘惑を退けて見事に完走して下さった。十字架の死に至るまで徹底して従われたので、「神は彼を高く引き上げ」(ピリピ2:9)て下さったのである。
Ⅲ.主イエスは信仰の実践者である。(3)
 主は単なる宗教家、理論家、評論家ではなく実践者であった。主は寒さにも暑さにも、喜びにも悲しみにも、飢えにも富にも、恥にも誇りにも敏感に影響される我らと同じ肉体を持たれた。にも関わらず主は「恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至った」である。最大の戦いは「自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)ことである。主は「罪人らのこのような反抗」を耐え忍ばれたのである。かつて主イエスは「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)と言われた。人間の最低の生活を身を以て体験して下さったキリストこそ、我らキリスト者の最大の目標である。
 新しく迎えた2005年(平成17年)も、国内外共に益々激しい展開を余儀なくされることであろう。しかし揺れ動く大地にあって、いつも変わらないお方はイエス・キリストのみである。今年もまたこのお方をしっかり仰ぎ見つつ、祈りと喜びと感謝とに満ちあふれた堅実な信仰生活を送りたいものである。

出エジプト記14:19~20
このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきたので、そこに雲とやみがあり夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた