聖書:ローマ3章21節~28節

21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

 5月23日、最高裁刑事規則制定諮問委員会から規則の要綱案が最高裁に答申されました。これによって市民が刑事裁判に参加する「裁判員制度」の導入が2年後に確実となりました。この制度導入の意図は、裁判に対する市民の理解を深めること、市民の参加によってより公平な裁判が期待されること、より迅速な裁判の結審が得られることなどです。そもそも裁判とは人が人を裁くことですから平等、公正、完全を期待することには限界があります。冤罪、不条理、不正などの事例が昔も今も後を絶ちません。しかしこの世にあっては正義と不義を権威をもって判断する部署が裁判であることも確かです。求められているのはただ一つ正義そのものです。聖書は「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された」(21)と記しています。 
1.神の義
 神の義とは、絶対的な正義であって僅かの妥協も誤魔化しも赦されません。「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった」(25-26)のです。厳密に言えば、これまでには神の義が現されていなかった為に、人の罪を赦すという大義が現実となっていなかったのです。罪には必ず罰が伴います。罰の伴わない赦しは単なる絵に描いた餅に過ぎません。神は末の世にあって神の御子イエス・キリストを世に遣わされ、人間の不信仰と偶像礼拝という罪に対する十分な罰を与えらました。そのことによって「神みずからが義」(26)となられ、人が義とされる道が開かれたのです。
2.贖いによる義
 母子殺害事件の差し戻し審が24日広島高裁で始まりました。これは最高裁が二審の無期懲役判決を破棄し、審理を戻したためです。争点は死刑か死刑回避か、つまり相当な量刑について争われているのです。犯罪に対して相当な罰が下されなくては被害者は浮かばれないばかりか、真の正義が立たなくなります。神は人間の罪に対する罰としてイエス・キリストの命を支払われました。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」(Ⅰコリント6:20a)。「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(24)とある通りです。
3.信仰による義
 聖書は「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(28)と教えています。これは「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(22)であって、ユダヤ人と異邦人、割礼の者と無割礼の者、「そこにはなんらの差別もない」(22)のです。神は「イエスを信じる者を義とされる」(26)のです。これこそが福音の真髄です。
 聖霊はキリストの十字架の勝利の故に降臨されました。血潮を抜きにして聖霊を論じることはできません。真実の悔い改めをもって主に近づき、ご聖霊を心のうちにお迎えいたしましょう。