聖書 ヨハネ7章14節~18節

14 祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。
15 すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。
16 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
17 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

 人類に罪が入ってきたのはサタンの一声を聞いた時からだ。その日以来人々は耳から入ってくるものが真実かどうかを見極めるためにいつも緊張している。私達の耳は二つの問題を持っている。一つは真理と偽りを見極める能力が無いこと。もう一つのもっと深刻な問題はプライドが強くて真実ほど聞きたくないことである。これらの愚かさを聖書は「耳があっても聞こえない」と言う慣用句で表現している。詩篇では偶像の虚しさと偶像を作る人の愚かさ、預言者たちは神に従わない愚かなイスラエルの民を叱るとき使った。耳の唯一の働きは声を聞くことだ。しかし、心の状態によって聞き取るときもあれば、わざと聞かないときもある。神の御心を行おうと思う人は良く聞く人だが、神の御心を行おうと思わない人はなかなか聞かない。今日は耳の霊的な働きを見たいと思う。
1.聞く耳がある人(神のみこころを行おうとする人) 
 イエス様の奇跡を経験した人々は聞く耳がある人だ。この世には望みがなかった人々だった。体の弱さ、経済的な貧しさ、精神的な弱さ等を、身を持って十分体験した人々だった。彼らはイエス様の教えを素直に受け入れた。イエス様の教えを素直に受け入れたもう一つのタイプの人がいる。この世のものは十分満たされていても、心の飢え乾きを持っていた人々である(ニコデモとヨセフのような人)。この二人はこの世のものは十分満たされていたが、その虚しさで苦しんでいた。権力の虚しさ、お金の虚しさ、人生の虚しさを知っていた。その虚しさが彼らに聞く耳を与えた。ラビでもないし、ガリラヤ出身のイエス様の教えが彼らの心の耳に響いた。神様は少数の聞く耳がある人を通して、神様のみわざを行う。その具体的な例を旧約のネヘミヤから見ることが出来る。
2.聞く耳がない人(神のみこころを行おうとしない人)
 イエス様の当時のパリサイ人はイエス様の学歴に関して、つべこべ言っていた。「ラビでもないし、有名なラビの弟子でもないし、ガリラヤ出身なのに、どうして神の戒めを教えるのか?」が彼らの疑問だった。その時代のラビは皆、昔の有名なラビ誰々の教えを引用して教えたのに、イエス様はご自分の名によって教えた。しかも、奇跡とみわざが次々と起こった。だが、彼らは受け入れることを拒んだ。理由は彼らが聞きたくない話をしていたからである。イエス様は 7:7で「世のおこないの悪いことを、あかしして」いたので人々は耳を閉じた。第二テモテ4:3―4「人々は耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」と教えている。心の中で聞きたいお話と聞きたくないお話が決まっていて聞きたい話の所だけ耳を開く。それ以外は耳を貸さない。パリサイ人のような愚かな人が旧約にも一人いる。北イスラエルの王であったアハブである。
 偽物や偽りが多い今の時代、騙されやすい時代だ。そのことで人々は「どうすれば騙されないのか?」と心配しているが、そのエネルギーをこれからは「どうすれば主のみこころを行うか?」に使おう。神のみこころを行おうとする意志がある人に、神様は聞く耳を与えて下さるが、神のみこころを行おうとする意志がない人には聞く耳を与えて下さらない。