聖  書  Ⅰヨハネ1:5-10

5:わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
6:神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
7:しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
8:もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
9:もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
10:もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

金 言
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。 (Ⅰヨハネ4:10)
 神はどのようなお方か を8月は聖書から学んでいます。本日の聖書箇所は、「神の愛」が記されています。新約聖書が書かれた時代も、日本でも、一般的に、愛とは「性愛」のことでした。わたしたちも、愛とは、「好き」という感情を表現しています。「人の愛」は、自己中心で、変わりやすく、もろく壊れやすいものです。「愛に裏切られた」ということも言います。
 それでは、「神の愛」とは、どんな愛でしょうか。「ここに愛がある」(10)と、「神の愛」を指し示しています。
1,わたしたちの罪のために
 愛とは不釣り合いな言葉が、罪です。愛が試されるのは、罪を犯した時です。「わたしたちの罪」とは、人ごとではなく、自分のことです。罪を犯す者は、神を悲しませ、神から離れていきます。罪を犯す者は、心は堅くなり、死んだ状態になります。「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(3:8)。悪魔は、自分が最高の存在で、絶対に罪を認めず、悔い改めず、人にも同じことをさせるのです。
 罪を何とか解決しなければなりません。神は、罪を、ごまかしたり、あいまいにしたままで、人と関わりを持つことができません。神は、罪を犯し続ける者の罪をお嫌いになり、罪に対して怒られるのです。罪を犯す者を、神は罪をどうされるでしょうか。
2,御子をおつかわしになった
 人は、自分で犯した罪をどうすることもできません。人は、罪を隠したり、忘れたり、ごまかしたりするばかりです。時間が解決するわけでもありません。
 神は罪を犯した者を、見捨てることができませんでした。それは、神は、罪人をどこまでも愛しておられるからです。神は、わたしたちの罪を赦し、罪をきよめるために、神の独り子である主イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
3,あがないの供え物として
 「ここに愛がある」とありますが、「ここ」とは、「どこ」でしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の死です。「あがないの供え物」(11)「ながめの供え物」(新改訳)とは、罪に対しての「なだめ」意味です。神は、人をどこまでも愛しておられるので、罪に対して怒られます。神は、罪を、いつか、どこかで、さばかれなければなりません。わたしたちも、心の中で神の怒りを恐れ、神に近づきたくても、近づくことができずにいるのです。
 神が御子をお遣わしになった目的は、御子が、人の罪を一身に負い、罪の裁きを受けることです。それが、主イエス・キリストの十字架の死の意味です。「この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と祈られたのは、全人類の罪に対する怒りを一身に受ける主イエスの苦悩からです(2:2)。
 主イエス・キリストの十字架の死によって、神は罪人の罪をお赦しになり、神の罪に対しての怒りはなだめられたのです。だから、わたしたちは、恐れることなく、大胆に神に近づき、神を父と呼ぶことができるようになったのです。
 神の愛は、「罪を赦す愛」です。あなたにも、この愛は与えられているのです(ローマ5:5-11)。