聖 書 ルカによる福音書4章16~19節
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、
囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19主 のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

金 言 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。」(ルカ 4:18)

ルカによる福音書ではイエスは荒野でサタンの試みにみごと勝利された後、「御霊の力に満ちあふれて」(14)ガリラヤ地方の諸会堂でラビ(律法の教師)として教え始められました。その教えを聞いた人々から「尊敬をお受けに」(15)なられました。そののちイエスはお育ちになったナザレに会堂に行き、幼い頃からイエスを知る人々に向かって教えられました。

 1.救われていない肉の人

イエスは渡された聖書を朗読するために会堂に立たれます。イエスはイザヤ書61章を選び朗読されました。はじめに18節からまだ救われていない、聖書が「肉の人」と呼ぶ人の4つの性質について考えます。

[貧しいものだった]  財産がいくらあっても救われていない人には、心の中に本物の豊かさはありません。人としての豊かさは貯金や買い物のようには手に入れることはできません。マタイ5:3に「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」とあります。もし人が世の富を幸せを得る価値基準と考えないで、自分の心が罪深く貧相であり、神の憐れみが必要だと自覚するならその人の救いに近いと言えます。

[世の囚われ人だった] 救われていない人は世間の目や声といった人の動向を気にして本当は恐れる必要のないものをいたずらに恐れている世に囚われた人です。彼らは人目や人の噂は気にしても、目に見えないが権威のある神を恐れようとはしません。

[霊的な盲人だった] ヨハネ9章に生まれつき目の見えない人が出てきます。盲人の目を開いたイエスは律法的なパリサイに「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(41)と言われます。救われていない人の心は暗く光が見えないので、肉眼は見えていても、霊的には盲人と言えます。

[打ちひしがれていた] 神の愛を知らない人は、自己採点や人の評価で自分の価値を決めようとします。しかしそれは絶対確実な評価ではないので、あるときはその人を有頂天させ高慢にさせ、さもなくば劣等感で打ちひしがれるしかありません。結局救われていない人は真実の自己像をつかむことはできません。

2.救いを受けて主の御霊を宿す人

救われた人は肉の人の4つの性格が正反対に変わります。救われると「御霊を宿す人に変えられるのです。

[富んで] パウロは救われ後、自分の心の変化をこのように表現しています。「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」 (Ⅱコリント6:10)。救われることで得た財産は、金銭や物品と違って減ったり失われたりすることがありません。救いは人の心に奪い去られることのない富をもたらします。その富は信仰に応じてどんどん増えていきます。

[自由になり] 救いはいままでこだわっていた因習や悪習慣の束縛から人を解放し、本当の自由をもたらします。この自由は拘束を解かれても、自分の好き勝手な道に迷い出ません。救われた魂とはたとえストレス、試み、悪の誘惑を受けても二度と罪の奴隷のくびきを負うことがなく、いつも喜んで御旨に従うことができる魂の自由です。

[霊の目は開かれ] 救われると「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)という真理が理解できるようになります。救いは霊の目を開かせ見える事象だけに頼らないし偽物にごまかされない真理を見抜く霊的な鑑識眼が身に着くのです。

[希望に生きる] 救われた人は自分の幸福度を世や人の評価の目安としません。神が日ごとに与えてくださる恵みとみことばが約束する尽きない希望に生きることが出来ます。

3.主の恵みの年を告げ知らせる人

「主の恵みの年」はかつてヨベルの年と呼ばれ、50年に一度土地と奴隷の大解放をするイスラエルの規定でした。これにより富める者はへりくだり貧しいものは主にあって望みを抱くことができました。イエスが世に来られた本当の意味は、人々を罪から解放し真の自由を得させるためでした。本当の自由とは、社会的な富の不平等などのこの世を是正することではなく、人間の魂を永遠に自由にさせ尽きない喜びと感謝を得ることです。イエス・キリストはそのために来られ「主の恵みの年」を告げ知らせました。今やだれでも悔い改めて福音を信じるなら、主の恵みの年を迎えることができるのです。