聖 書 コリント人への第二の手紙5章17節~6章1節
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
5:19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
6:1 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。

金 言 「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」(Ⅱコリント6:1)

霊的に生まれ変わることを、日本語では新生、英語ではborn-againと言います。誰でもクリスチャンになると人生に二つ目の誕生日ができます。それは洗礼日です。私が霊的に新しく生まれたのは1995年のイースターですが、わたしはその約4か月前のクリスマス集会でイエスさまをわたしの救い主と今日信じますと信仰告白をしていたので、救われたのはその日と言っていいかもしれません。一年半前から毎週礼拝に行っていましたが、信じますとはっきりと告白した瞬間は大きな感激でした。

1.神が約束された救いの宣言

今日のみことばのⅡコリント5:17は私の救いの御言葉です。これは神が約束された救いの宣言文と言っていいのではないでしょうか。どんな人の人生でも後悔はつきものです。多くの人はもう一度あのときからやり直せたらどんなに良いだろうと、かなわぬ夢と知りながら取り返しのつかない過去に悔いているのです。救われる前の私がそうでした。しかしキリストに出会った人はいつまでもくよくよ悩む必要はありません。わたしたち人間は神様によって造られました。Ⅱコリント5:17によるならば、わたしたちの存在・いのちのルーツである方は、あなたがキリストを信じるならば、過去の古い罪をすべて無かったとみなして、新創造してくださると宣言されたのです。よくキリスト教の神は気前の良い神と言われます。救われるために善良であることや良い行いに励む必要はありません。罪を持ったままのみにくくみじめな姿のままでイエスのもとに来なさいと神は招かれるのです。そうするなら救いにもれる人は一人もありません。救いは無代価で与えられますと言うのは虫が良すぎるでしょうか。タダで受け取ることができるくらいの救いなら価値もそれほどない?とお考えでしょうか。

2.神が払われた救いの代償

神は罪を犯したわたしたちに罪の代償を要求はなさいませんでした。その理由は人の罪があまりに多く大きくてわたしたちには代償を到底払いきれないからです。だからと言って神は聖であり義なるお方ですから、罪を見過ごすことや罪に目をつぶることはできません。けれど神は人の罪ゆえに滅びるままに見捨てることをなさらず、人を憐れみ神の愛を刻印のようにわたしたちの歴史に刻まれました。神が人の救いのために備えられた方法は実に人の及びもつかない方法でした。その愛の証しが十字架です。「その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、」(19)を新改訳は「違反行為の責めを人々に負わせないで、」とわかりやすく訳しています。つまり本来わたしたちが負うべき罪を、神が人となり人に代わって、十字架による死を持っていのちの代償を支払われたのです。そのために神がなされたことは驚きに値します。それは「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。」(21)のです。冤罪は世の中の裁判ではあってはならないことです。しかしながら神は人を罪から救うただ一つの手段として、ご自身に十字架という犠牲を強いたのです。その理由は「わたしたちが、彼にあって神の義となるため」(21)でした。わたしたちが無償で救いを受け取るために、神が支払われた代償はあまりにも大きなものでした。

人間が神に対して犯した罪の根にあるものは、神を神としてあがめもせず自己中心に生きる心です。神がいないかのように振舞い自分の造り主にそっぽむく態度です。ですから救われることで、神を無視して神に背いていた生活者から、神と向き合い神を愛し仕える者に変わります。18と19節に「わたしたちをご自分に和解させ」とあるように、救われることで神から離れ神に背いていたわたしたちは、キリストによって神と和解をしました。人はキリストによって神と和解をするとき、心に本当の平和が与えられます。

3.神と共に働く聖なる務め

「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」た(19)だけではありませんでした。こうして救われることで霊的に生まれ変わったクリスチャンを、神は「和解の務め」(18)をさせるために「キリストの使者」(20)として遣わされたのです。英語の聖書では“ambassadors for Christ”と書かれたものがあります。アンバサダーという言葉は自国の代表として他国に駐在する大使とか特命を受けて派遣された使節という意味があります。わたしたちは神の国を代表するキリストの使節として世に遣わされているのです。20節の「勧めをなさる」と訳されてある箇所は、新改訳では「神が私たちを通して懇願しておられる」と訳され、神が福音を伝えてほしいという熱情がひしひしと伝わってきます。救われることで人は「神と共に働く者」(6:1)となりました。「和解の福音」(19)を伝えるという聖なる務めを全うするために神と共にダイナミックに働きたい。自分が救われたことが他者の喜びの知らせにつながり、無駄でなかったといえる生き方を選び取りたい。