聖 書  ヘブル人への手紙10章23~25節
10:23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
10:24 愛と善行とを励むように互に努め、
10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

中心聖句 「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル10:25)

 

皆さん、最初に教会の礼拝に行った時のことをおぼえておられますか?わたしは先週講壇交換で鎌倉の教会に行って、救いの証しを話すことでその当時の記憶がよみがえりました。わたしは教会の礼拝に初めて出た日が忘れられません。それは大変感激したからです。何にそんなに感動したか?それは一同が声を合わせて歌う会衆賛美でした。力強く喜びにあふれた人々の歌声は高い礼拝堂の天井を貫き、周囲の壁を震わせるかのようでした。今日は「礼拝に生きる民」について学びましょう。

わたしたちクリスチャンは礼拝に生きる民です。週の初めの日は礼拝から始まり忙しい七日の旅を終え、再び礼拝に戻ってきて神のもとで安息することで、心と霊と体が一新され聖霊に満たされて、遣わされていくのです。礼拝の起源はどこにあるのでしょう。ユダヤ教では神を礼拝する日と定められていた安息日は土曜日でした。ところが主イエス・キリストは金曜日に死にて葬られて、三日後の日曜日に死人のうちよりよみがえられました。それを記念してイエスを神と信じるクリスチャンたちは礼拝を行う日を日曜日として聖なる日(聖日)と呼びます。パウロは伝道旅行に出かけたトロアスで「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった」(使徒20:7)という記述があります。礼拝によってわたしたちの心は整えられます。ローマ12:1~2にあるように、神のみむねにかなった生き方をしようと努めます。

1.告白する望みに生きる民 23節

礼拝ではまず招詞が読まれます。礼拝は神の民が呼び集められ神に招かれることから始まります。わたしたちは父なる神、子なるイエス・キリスト、御霊なる神に対して、おのおの自分の声で信仰告白を公にします。主の祈りは「天にましますわれらの父よ~」という呼びかけから始まる祈りの基本であり、使徒信条で、わたしたちの神はどのような方で、何を信じ従っているかを告白します。自由祈祷や交読、会衆賛美のなかにも「わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け」るために、世の荒波にもまれ続けても、礼拝に帰ってきて神の子である自覚(アイデンティティ)を新たにして、神から愛されているという事実に立ち返ることができます。

 2.愛と善行に生きる民 24節

クリスチャンが愛と善行に生きようと決心するのは、良い人間になろうとする志や倫理観や道徳心、人間愛(ヒューマニズム)からではありません。神に背を向けていた罪びとのわたしの罪の身代わりに神ご自身が罰を受け、すべての罪を赦し受け入れ救ってくださった神の大きな愛に応えて、神のもとに回心して帰ってきたあとの当然の行為として、愛と善行に生きる民に変えられるのです。皆さん、ルカ15章の放蕩息子が父のもとに帰ってきたその後はどうなったと思いますか?息子は雇い人のひとりではなく以前のように息子として迎えられましたが、彼は父の無償の赦しを経験した後は、自分の損得しか考えない以前の姿とは違う、愛と善行に生きる者となったでしょう。

3.かの日を待ち望み生きる民 25節

わたしたちが地上でささげる礼拝は、どんな荘厳な礼拝堂で行われるものでも、やがて天においてささげる本当の礼拝のリハーサルのようなものです。というのはわたしたち信仰のゴールは「かの日」(再臨)にあるからです。地上の生活の祝福だけを願うなら、キリスト教信仰はむなしいものとなり、礼拝や集会から足が遠のきます。「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」(Ⅰコリ15:19)。再臨は信じがたいことですが荒唐無稽なつくり話ではありません。再臨が来ると主の救いの門は閉じられてしまいます。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(Ⅱペテ3:9)。主の憐れみと忍耐を想いわたしたちの最大の希望であるかの日を待ち望み生きる民となりましょう。