聖 書 ペテロ第一の手紙2章9~10節
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。

中心聖句 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」(第一ペテロ2:9)

私の両親は山梨県生まれなので、自分はほとんど東京育ちですが、「お国自慢」は山梨です。人は自分のルーツを考えるときよりどころを必要とします。同窓会、県人会、校友会はその表れです。人がある集団が属してその集団の一員であるという意識を「帰属意識」と言います。あなたはクリスチャンとしての「帰属意識」がありますか。

 1.神の民の帰属意識を保つ

私を筆頭にして今日礼拝に来られたほとんど方は、自分が特別な人間であるとは微塵にも考えないでしょう。これまでの人生で特別に選ばれたことがあるとか、何かで表彰をされたとか、人から羨望のまなざしで見られたなどの経験や自慢したい過去があるわけではない人も、今日の聖句を読むと、救われてクリスチャンになることはすばらしい称号をたくさん与えられているのだなと自覚します。クリスチャンがはた目には世の人と変わらない十把ひとからげの凡人に映ったとしても、神様の目には輝いて映り、私たち新しく生まれた神の子に大いに期待されているとわかり嬉しくなります。

私たちは「選ばれた種族」です。ところが選びの基準は優秀だったからではありません。パウロはそのことをⅠコリント1:26~29で述べており、「無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」という結論に、救われた人は誰しもが共感するのです。神の選びは測りがたい。救いは行いにはよりません。神からの賜物です(エペソ2:8~9)。

また私たちは「祭司の国」と呼ばれます。旧約の祭司は動物のいけにえをささげましたが、新約に生きる私たちは「イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえ」をささげます(Ⅰペテ2:5)。祭司の役目は神と人に忠実に仕えることです。

さらに「聖なる民」です。申命記7:6には「あなたを選んで、自分の宝の民とされた。」とあります。神は私たちを「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43:4新改訳)と言われ、黄金や貴石に勝るような宝と呼ばれたのですから、周囲の評価や自分で自分を価値のないつまらない者と決めつけてはなりません。

9節の最後は「神につける民」です。新共同訳では「神の所有された民」と訳されています。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない…あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。」(Ⅰコリ6:19~20)のように、神はイエス・キリストの血の代価という尊い犠牲を払われて、私たちを買い戻されました。私たちは世の評価や他人の意見に惑わされてはいけません。日々神が愛する者にかけてくださるみ声を聖書から聴くことで、世の中で傷ついてへこんでも神の真実のみ声にいやされて、再び神の民の帰属意識を取り戻しそれを保つべきです。

2.神の民の使命を思い出す

世界中のクリスチャンは国や民族や肌の色が違っても「神の民」なのです。救われる前、私たちは罪を抱えたやみの中の住人でした。しかし救いによって「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざ」(9)を体験したのです。『「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。』(Ⅱコリ4:6)。

このすばらしい救いの体験とその後の恵まれた人生を、人々に証して語り伝えることが私たち神の民とされた者の使命なのです。それは神が共におられる平安な生活やみことばに約束された永遠の希望と喜びなど、恵みを数えれば試練や問題すらも感謝と変えられます。暗い罪の世界におかれた人々は不満と怒りでいっぱいで、思い煩いが絶えない毎日です。彼らの声に耳を傾けて心の叫びとその必要を聞き取り、あなたが勇気を出して救いの証しを語り伝えることで、誰かの救いにつながるように神に用いられたいと思いませんか。神は必ずあなたを用いたいと思い救われたのす。

3.神の民とされた祝福

クリスチャンは神の民です。救いによる祝福はあなたで終わりません。「わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出20:6)とあり、神の愛とあわれみは尽きることがなく朝毎に更新されます(哀歌3:22~23)。