聖 書 ヨハネによる福音書3章16~17節
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。


中心聖句 
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

人が愛を誓いあうときは結婚式を思い浮かべます。式文では「あなたは神の定めに従って夫婦の神聖なちぎりを結ぼうとしています。あなたはこの人を愛し、この人を慰め、この人を敬い、健やかな時も、病める時もこの人を守り、その命の限り他のものによらないでこの人にそうことを願いますか?」です。この誓約を聞くとき、当事者の新郎新婦のみか、参列者全員は結婚が持つ崇高で美しい愛の意義に心打たれます。

しかし現実は人の誓約というものは実にもろくはかないものです。今やアメリカでは2組に1組が離婚をしており、最近の統計では日本も3組に1組は離婚をしているそうです。今日は「神の愛の誓い」であるヨハネ3章16節を開き、神の不変の愛を確認します。

1.神の愛は底知れないほどに深い

まず神の愛は測り知れないほど深いことです。パウロは自分の愛弟子テモテに宛てた手紙に「恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。」と何度も書いてきます。「恵み」とは、自分には受ける資格のない良いものを受けることであり、「あわれみ」とは、自分が当然受けるべき罰を免除されることです。ですから神の愛は恵みとあわれみの結晶とも言えます。ローマ5:8によれば「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」と書かれています。神様はまぎれもない罪びとたちの集まりである世を、あるがままの状態で愛し受け入れたのです。これは神様のご本質は、完全に聖であり(清く)義である(正しい)ことを考えれば、真逆の行為であり信じがたい行為です。人であるなら罪があっても見て見ぬふりをするとか大目に見るとかするでしょう。しかし神は罪に対しては最高裁の裁判官より厳格であるべきお方です。ですから、神は本来罪びとに向ける鉄槌を、神のひとり子イエス・キリストに下されたのです。

同志社大学の創立者新島襄の「自責の杖」は有名な逸話です。あるとき校則違反の処罰を巡り悩んだ末に襄は、朝の礼拝に集まった生徒を前に「今回の集団欠席は、私の不徳、不行き届きの結果起こったことであり責任は自分にある」と話し、突然右手に持っていた杖で自らの左手を叩き始めたのです。何度も何度も激しく打ち付けたことにより、襄の手は腫れあがり杖は三つにまで折れてその破片が飛び散ります。襄は生徒の犯した罪を自分自身に体罰を与えることで謝罪しました。ですが神の愛の犠牲はそれに勝るものです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」のです。生徒は泣きながら襄の自責を止めるよう懇願したそうですが、二千年前神の子イエス・キリストは罪と無関係なお方であるのに、傷ついた身体を晒しものにされて、人々の罵倒と嘲弄を浴びながら、十字架上で死なれました。十字架は不条理なものですが、そこに神の愛と赦しがはっきり示された、神の自責のしるしなのです。

2.神の愛からもれる人はひとりもいない

アウグスティヌスは「神はまるで私ひとりしかいないかのように私たちを愛す」と言われました。神はすべてのご自身が造られた一人ひとりの人を、人種、民族、国籍、宗教、身分、肌の色、過去の罪などを全く分け隔てなく愛されます。つまり世界中の誰一人として神の愛からもれる人はいないのです。人は愛にえこひいきがあり、相手によって愛の度合に差がつきます。しかし神は公平なお方です。だから「御子を信じる者がひとりも滅びない」ことを切に願われたのです。神の愛は雄大でありながらも細やかです。私の悪しき行いと心に抱く悪い考えを、先刻ご存じであるはずの神が、こんな私でさえ無条件に愛してくださるとは、なんと深い慰めでしょうか。たとえ人に嫌われ軽んじられても神は私を愛し続けてくださるのだ。そうと知りこの神を信じるなら、すべての人は失望や失敗にもくじけないで立ち直ることができます。人生が最悪に思えるときでさえ希望を持ち続けられます。今は格差社会に絶望して苦闘している人、他人と比べたら自分など愛される値打ちがなく、努力しても報われないと落ち込んでいる人など、神の愛を必要とする人は周囲に大勢います。キリストの救いだけが人の本物の価値と人生を生きる目的を教えて、永遠の命を与えることで心に安らぎと喜びがやってきます。

3.神の愛は永遠に変わらない

戦国時代に日本に来た宣教師たちは、神の愛を「お大切」と表現したそうです。神の愛は底知れないほどに深く、その愛からもれる人はひとりもいないほどに、神にとって私たち人間は神にとってかけがえがなく「お大切」な存在です。神が御子として世に姿を現されたのは、私たちをどれほど愛しているかを伝えるためと、人を罪から完全に救うためでした。神の愛を信じた者はみな永遠の命を得ました。神が命がけで伝えた愛によって救われた者はみな、恵みとあわれみである神の愛を、他の人に伝えるために地上に教会は建っているのです。お互いは神の愛を発信し続ける責任を果たしたい。