聖 書 エペソ人への手紙2章19~22節

(19)そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
(20)またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

キリスト教は個人的色彩の強い宗教であると良く言われます。確かに仏教などは檀家制度によって、家長(筆頭人)が入信すれば、その家族そのものが仏教徒として数えられます。つまり個人の宗教ではなく家の宗教なのです。それに比べてキリスト教は信仰入信の際には明確な個人の信仰告白が求められます。しかし、聖書は家族を軽視しているのではなく、むしろ真の家族の在り方を教えています。それは、すべての人はキリストにあって神の家族であるという、宏大な教えが根底に横たわっているのです。

Ⅰ.キリスト者は神の家族の一員 (19)
キリストの尊い血潮による贖いによって、私たち罪人はすべての罪が許されたばかりではなく、キリストと和解した者、父のもとにはばかることなく近づくことができる者とされました。そこで私たちは「もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族」とされているのです。それでは一般論として、「家族」とは私たちにとって何なのでしょうか。それは血を分けた者の集まり、いわゆる血縁関係です。家族は一種独特な、強い絆で結ばれています。しかし、核家族化した現代においては、その絆にも限界があることが表面化してきました。そうした中にあって「神の家族」という聖書の教えの中に私たちは新らしい意味を見出すことが必要なのです。

Ⅱ.神の家族の土台はキリスト (20)
「家族の崩壊」という言葉を耳にするようになって時久しくなりました。この言葉から連想する状態は、孤独、孤立、疎外、悲嘆、絶望、憎悪、殺意等々です。特に高齢社会を迎えた今日において、改めて「家族とは何か」という問いかけをする必要があります。家族とはそれ程軟弱なものなのか。家族を結びつける絆とは何か。土台とは何か等々。
聖書は「神の家族」に関して「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である」と教えています。キリストは人となられた神です。神は創造主であり、永遠の存在であり、私たちの土台です。この土台の上にキリスト者は立っています。これほど堅固な土台はなく、これほど確実な人生はありません。

Ⅲ.神の家族の展望は霊なる神の住まい (21~22)
情報技術の進歩発展により世界は狭くなり、便利にもなりました。その反面、それを悪用する犯罪も増加しています。成果主義のこの世にあっては利益を獲得するために、銀行、保険、ゼネコンなどが統合しています。西欧ではユーロの流通によってEU圏が構築されました。しかしイギリスの離脱によって大きく揺さぶられています。最近では「IS国」によるテロ事件や内戦などを契機にして難民問題が浮上しています。今や世界は「連帯か孤立か」の二極に別れ、アメリカの大統領候補トランプ氏の「アメリカ第一主義」が多くのアメリカ人の共感を呼び、その思想は世界に影響を与えています。こうした中で聖書は「神の家族」の展望についてどのように教えているのでしょうか。聖書は「このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて霊なる神のすまいとなるのである」と教えています。これは単なる理想像ではなく、キリストの贖いによってすでに完成されている希望なのです。

神の家族に対する聖書の教えにしっかりと立ち、キリストの血という強い絆に結ばれ、真の希望と喜びに満ち溢れた生涯を歩む者とならせて頂きましょう。