聖 書:ヨハネの第一の手紙 第3章11~24
3:11 わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。
3:12 カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。
3:13 兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。
3:14 わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。
3:16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
3:17 世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。
3:18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。
3:19 それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。
3:20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。
3:21 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。
3:22 そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。
3:23 その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。
3:24 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。

 今朝は2019年の新年礼拝です。一年52週に渡って神様に礼拝をささげます。船橋の教会ビジョンのキーワードの「互いに愛し合う」ことを、かのマリヤがしばしばしたようにさらに深く思い巡らす(ルカ1:29,2:19)ことから始めます

1.神様の慈悲深いように
 「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(新改訳2017/23節) つまり互いに愛し合うことを、奨励されるよりさらに強命令されました(口語訳と協会共同訳は「神の戒め生来ウマが合う気の置けない間柄ならいざ知らず相手との間に意見の対立や感情のもつれさまざまな誤解が生じると互いに愛し合うことは口で言うほど容易いことではありません。しかしイエス様はこう言われました。「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。」(ルカ6:32~33)。つまり互いに愛し合うことは、愛するのに何の抵抗も感じない「その人が愛しやすい人」を指しているのではありませんむしろ自分が愛しづらい人こそ、神のこの命令は必要なのです。分け隔てなく愛する者に変わるには、罪人のわれわれをためらいもせずに愛してされた様が、どんなに慈悲深いかを思い起こすことです(ルカ6:36)。ゆるせないほどの人はもはや一人もいません。

2.聖霊様に聞き従うことで
 わたしたちが神の命令である「互いに愛し合う」には、独りよがりな考えではなくわたしたちのうちに住まわれる聖霊様の細きみこえに、常に尋ねて聴き従うことが何より大切です。互いに愛し合うこと、言葉や口先だけでは相手になかなか伝わりません。神の命令に忠実であることを示すバロメーターは、互いに行いと真実をもって愛し合うことです(Ⅰヨハネ3:18)。
 マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心だ。」と言ったのは有名な話です。互いに愛し合うことの第一歩は、相手に関心を寄せてその人が願っていることがわかったなら、一緒に祈ることから始めましょう

3.イエスの愛に倣い
 ヨハネ3:16は聖書中のかなめとなる聖句ですが、Ⅰヨハネ3:16も素晴らしい聖句です。主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ3:16)。イエス様は「互いに愛し合う」ことの重大な意味を天の父なる神様との愛の断絶を味わい(マタイ27:46)、十字架でいのちを捨てることで自ら教えてくださいました。これこそが愛は名詞ではなく動詞ですと言われるゆえんです。それによってわたしたちは神様の愛がどれほど深遠かつ崇高で不変であり、その豊かな永遠に続くのかを、イエス様の十字架によって体験的に知りましたこの愛をもって滅びから信仰によ救われた今、イエス様の愛に倣うからこそ、兄弟のためにいのちを捨てる覚悟ができるのです。