聖 書:ルカ10章17節~20節

(17) 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。(18) 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。(19) わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。(20) しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

 伝道の働きを報告するため、弟子たちはイエス様のところに戻って来たのである。心は喜びで満ちあふれていた。イエス様も喜んで下さった。それに加えて、もっと大きな救いの喜びも教えて下さったのである。救いの喜びは生活のあらゆるところで現れるのである。色々考えられるが、今日の箇所に基づいて三つだけ申し上げたいのである。
Ⅰ.おまけの賜物がある。
 弟子たちは奇跡や賜物に喜んでいるが、実は彼らにある賜物は救いから来たのである。救いなしには賜物もないのである。賜物の源は救いにある。賜物は救われると良き信仰生活の為に、また良き伝道の働きの為に主が特別に与えて下さるのである。その意味で賜物は救いより大事なものではない。救いの喜びがあるとき、賜物はもっとはっきり現れるのである。救いの喜びが溢れるかどうかによって、賜物は現れる時もあるし、現れない時もある。しかし、一回神様の命の本に私たちの名前が記されると、そこから私の名が消されることはない。命の本のそばには消しゴムがないことはどんなに感謝な事であろうか?
もし消しゴムがあるなら私たちは不安で不安で生活出来ないのである。
.奉仕を続けさせる。
 イエス様の弟子たちは賜物を持って神様の国の為に一生奉仕したのである。彼らが一生を熱心に奉仕したのは賜物があるからではなくて、救いの喜びがあるからである。私たちが毎週、熱心に奉仕出来る源は救いの喜びにある。救いの喜びを持ち続けることは重要である。喜びなしに奉仕が続くと直ぐ疲れるのである。救いの喜びがないと必ず信仰に問題が起こるのである。一人一人が自ら現在の心の状態を点検して頂きたい。私の心は現在、救いの喜びで溢れているかどうか?喜びがないと診断されたら、出来るだけ早く回復されるよう努力しなければならない。
Ⅲ.勇気ある者になれる。
 19節の「へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」が私たちにあれば心強いと思う。どこに行っても、何をしても大胆に歩んでいけると思う。しかし、このような賜物より心強いものは主が私と共におられることを感じる時である。私が神の子供で、私の名前が天に書き記されていることより心強いものはないのである。救いの恵みを確信している信者の生活は色んな面で現れるのである。心が平安で、勇気がある。全てを主に委ねるので生活に自信がある。クリスチャンの基本的な生き方である。
 サタンは何とかして私たちから救いの喜びを奪っていこうとしている。救いの喜びがないと良き奉仕が出来ないし、神様の子供に現れるべき能力や賜物が現れないし、信徒の間にトラブルが起こるのである。私は現在、救いの喜びを持っているのか?