聖 書:ヨハネ14章1節~6節

(1) 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(2) わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。(3) そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(4) わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。(5)トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。(6) イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  

道は、大切なもの。道は、目的地に行くために辿るべき必要不可欠なもの。道に迷うと、目的地に行けないばかりか、命の危険さえ伴ないます。
世の中には、華道、茶道、柔道、剣道、武士道など、「道」と名のつくものが様々あります。それぞれ、目標に至るための重要な道です。さらに、“道”(タオ:宇宙と人生の根源的な真理の世界)と一体となるべく修行し、不老不死を目指す宗教、「道教」もあります。人は、実に、色々な生きる道を求めています。そして、多くの人は、道教が言うような「永遠への道」を求めてはいても、あきらめて生きているのが実状です。
Ⅰ.人となられた“道”
新約聖書ヨハネ1章1節を、現代中文訳では、こう訳しています、「宇宙が造られる前に、“道”はすでに存在しておられた。“道”は神と共におられた。“道”は神であられた」。さらに、14節をこう訳しています、「そして“道”は人となり、わたしたちのうちに住まわれた…」。主イエス・キリストは、子なる神でありながら、人となられた“道”です。
Ⅱ.神への“道” 
主イエスは語られました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。一般に、道とはどんな働きをするのでしょうか。主イエスが「わたしは道である」と言われた“道”は、英語では“way”です。それは、「ある場所から別の場所へ行くための道筋」のことです。主イエスこそ、神への“道”です。
Ⅲ.踏みつけられて創られた“道”
道とは、本来、人のために踏みつけられて作られるものです。主イエスは、私たちが一切の罪を赦されて父なる神のもとへ行けるように、十字架で私たちの一切の罪を負われ、身代わりに神の罰を受けて死んで復活されました。この方こそ、踏みつけられて創られた“道”です。
日本の武士道では、「上に立つものこそが責任をとる、そのためには自らの命さえ絶つ」、これこそがその真髄とも言われますが、主イエスこそ、実に、全人類の罪の責任を身代わりにとられた御方なのです。
結論 
“道”となって下さった主イエスを信じて、感謝しましょう。また、言葉と行ないをもって、この御方を証ししていこうではありませんか。そのために、この機に、今の時代に日本人キリスト者として神と人とのために歩む、自らの道をも、求めていこうではありませんか。