聖 書:ルカ17章11節~19節

(11)イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。(12) そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、(13) 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。(14) イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。(15) そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、(16) イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。(17) イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。(18) 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。(19) それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

 本日は2007年最後の聖日礼拝です。旧い年を送り、新しい年を迎えるに際して、しっかりと節目をつけることは大切なことです。感謝をもって2007年を終え、2008年という新しい年を迎えさせて頂きたいと思います。
聖書は「すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:18)、「感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ」(詩篇100:4)と教えています。キャンパス・クルセードの創設者である、ビル・ブライトは「感謝することは信仰の最大の表現です」と言っています。
Ⅰ.感謝の意識
 本日の聖書は、重い皮膚病の方々がイエス・キリストによって癒され、きよめられたという素晴らしい箇所です。10人の人が癒されたのですが、感謝を捧げたのは僅かに一人だけだったというのです。何と10%の割合ではありませんか。余りにも少なくてイエス様もがっかりされたことでしょう。
私たちお互いはいかがでしょうか。感謝の思いは、充足した豊かな心から沸き上がってくるものであって、間違っても不足、不平、不満を抱いている心から起こるものではありません。感謝の思いは必ずしも物質の充足と関係するものでも、比例するものでもありません。時には全く関係がないとさえ言えるかも知れません。何故なら感謝の思いは純粋に心の問題だからです。
Ⅱ.感謝の表現
 心にあるものは外に表さなくては相手には届きません。表現の方法は、言葉や態度や贈り物など様々です。この場合、重い皮膚病を癒されたサマリヤ人は「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(16)のです。もうこれ以上、感謝の気持ちを表すことができないという、最大限の態度でもって感謝の気持ちを表したのです。お互いの日常生活においては、このような表現をすることは余りあることではありません。これに準じる方法と言えば、矢張り「心のこもった丁寧な感謝のことば」ではないでしょうか。ヤコブは「言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である」(ヤコブ3:2)、「塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ4:6)と聖書は教えています。
Ⅲ.感謝の対象
 たとえ感謝を伝えたとしても、その相手を間違えば、その気持ちは当事者に伝わらないばかりか、双方に対して大変失礼なことになってしまいます。この場合、サマリヤ人は「大声で神をほめたたえながら帰って」(15)きたのです。イエスもまた、「神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」(18)と嘆息しておられます。
私たちが感謝を捧げる対象は神ご自身です。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」(ヤコブ1:17)からです。
 私たちは沢山の恵みを神から頂いています。こうした数々の恵みに対して私たちは神に感謝の供え物を捧げているでしょうか。忘恩の罪を犯すことがないようにお互い気をつけたいものです。
 神に感謝を捧げることは、神をほめたたえること、神に対する祈り、神を礼拝することです。それは神に対して人のなし得る最大の行為なのです。