聖 書:
ピリピ2:12~18
(12) わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。(13) あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(14) すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。(15) それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(16) このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。(17) そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。(18) 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。
イザヤ60:1~7
(1) 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。(2) 見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。(3) もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。(4) あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。(5) その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。(6) 多くのらくだ、ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい、シバの人々はみな黄金、乳香を携えてきて、主の誉を宣べ伝える。(7) ケダルの羊の群れはみなあなたに集まって来、ネバヨテの雄羊はあなたに仕え、わが祭壇の上にのぼって受けいれられる。こうして、わたしはわが栄光の家を輝かす。

Ⅰ.イエス様にある喜び
 ピリピ人への手紙は、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙と共に、獄中書簡と呼ばれる。イエス・キリストの福音が示されているが、特に喜びという言葉に目が止まる。パウロはいつ殺されるかも知れない、不自由な獄屋にありながらも喜びを書き送った。普通なら、獄中の人間を励まそうということで、手紙を書いたり、面会に行ったりする。パウロは囚人でありながら、自由な人々に励ましを書き送る。パウロは、牢屋に入れられるようなことで失われない喜びを持っていた。その喜びは、多くの人に分かち合えるほどの大きさがあった。この世の喜びは嬉しいことがあったときに生まれる。ささいなことで喜びは消えてしまう。パウロは、どんな時も、どんな場所でも、人に与えるほどの喜びを持っていた。その喜びこそ、この世のものではないイエス様と共にある喜びである。
Ⅱ.救いの達成を目指して 
12節からを読むと、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」とある。イエス様の十字架によっていただいた救いは、まだ途上のもので、達成を目指さなければならないのかと感じる。イエス様の救いは不十分なものではなく、完全なものである。それだのになお、救いに目を止めていかなければならないのはどうしてなのか。私たちには自由が与えられている。その自由を神様のために用いることも、自分の欲や悪のために用いることさえできる。クリスチャンが悪に陥り、罪を犯す可能性がなくなったのではない。私たちは心たゆませることなく、悪、汚れ、罪から遠ざかっていなければならない。パウロは彼が生きた時代を15節「曲がった邪悪な時代」と呼んだ。今の時代は、パウロの時代よりもより良くなっただろうか。より悪に満ちた、汚れが進んだ時代ではないか。この世で「傷のない神の子となる」ためには、「命の言葉を堅く持って」ということが大切である。命の言葉、聖書の言葉、神様の言葉をどれほど真実に信じ、それを実行しているだろうか。信仰の歩みはここまでで完成、修了というものではない。パウロも続く3:12~14で捕らえようとして追い求めている、目標を目指して走りと言っている。それぞれの信仰の歩み、成長に従って目標は与えられていく。
Ⅲ.輝くものとして 
御言に従って歩むものは、15節「星のようにこの世に輝いている」存在となることができる。星は夜空が暗ければ暗いほど、明るくきれいに見える。この世の闇が暗ければ暗いほど、クリスチャンの輝きは明るくなっていく。星が見えるのは夜空の間だけである。やがて、太陽が昇り、朝が来ると星は見えなくなってしまう。もう一箇所のイザヤ書60章には、イエス様が太陽や、月よりももっと明るい輝きをもたらしてくださる時が示されている。その光は永遠に輝き続けるとある。これは、現在のことではなく、やがてイエス様が再び来られる日に、イエス様が永遠の輝きとなられることを示している。その時には、私たちの星としての使命は終わる。星は小さな輝きであるが、大いなる輝きの中に入れられていく。その日が来るまで、私たちは信仰の灯火をかかげ続けていく。先には、パウロが持っていた救いの喜びという輝きを見た。救いの喜びに立って、イエス様の輝きを持ち続けよう。