聖 書:使徒行伝17:22~31

(22) そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。(23) 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。(24) この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。(25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、(26) また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。(27) こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。(28) われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。(29) このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。(30) 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。(31) 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

 最近の宗教年鑑によりますと、わが国の宗教人口は206,595,610人、国民一人が1,6の宗教を持っている勘定になります。日本人がいかに宗教心に富んだ民族であるかがよくわかります。しかし、パウロが出会ったアテネ(ギリシャ)の人々も日本人に優るとも劣らないほど宗教心に富んでいたことがわかります。まさにギリシャ神話の真っ直中にパウロは直面していたのです。そこには余りにも神々の数が多いために「知られない神に」と刻まれた祭壇があったと記されています。私たちは正月には初詣、彼岸にはお墓参り、お盆には盂蘭盆会、12月にはクリスマス、また通過儀礼などにおいては様々な宗教と関わりを持って生活しています。パウロがアテネの人々に「なたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」という言葉に私たちも耳を傾けたいと思います。 
Ⅰ.宗教心と信仰心
 聖書は「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)と教えています。「永遠を思う心」、これこそが宗教心であり、人間が他の動物と異なる生き物であるという何よりの証拠です。それは人間が霊的な存在であることの表れなのです。しかし人間が永遠を思う「心」を重視して、「永遠」を無視してしまいますとそれは単なる宗教心で終わってしまいます。大切なことは「永遠」という対象をしっかりと把握することです。宗教心とは信じる対象よりも信じる心を重視しますが、信仰心とは信じる心よりも信じる対象を重視するのです。
Ⅱ.創造者と被造物
聖書が教える神は「この世界と、その中にある万物とを造った神」であり、「天地の主」であるお方です。ですから「手で造った宮などにはお住みにならない」ばかりか、「人の手によって仕えられる必要もない」のです。わが国には八百万の神々が、ギリシャには数多くの神々が人によって作り出されています。しかし、この世には〈人間を創造された神と、人間が想像した神〉の二種類しか存在しないのです。ですから「われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫りつけたものと同じと、見なすべきではない」(29)と戒めています。モーセも「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3-5)と教えています。
Ⅲ.律法と福音
「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている」(31)のです。これが神の正義であり、律法なのです。だれがこの神の前に立ち得ることができるでしょうか。神はそのために独り子であるイエス・キリストを十字架にかけ、死人の中からよみがえらせて下さったのです。今や「神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」(27)のです。ここに愛の神が存在し、キリストの福音が存在するのです。
「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」(30)のです。お互い神から与えられた尊い「永遠を思う心」を単なる宗教心で終わらせることなく、心から悔い改めて、キリストを信じる信仰心に富んだ者にさせていただきたいと願ってやみません。