聖 書:エペソ2章8~10節

(8) あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(9) 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。(10) わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

今日の箇所は個人伝道のとき、救われることは人の行いではなく、神の恵みにより、信仰によるものであることを説明する為、必ず開くところです。
1.救うと救われる
 他の宗教にも救いとか救われると言う概念はあります。しかし、ほとんどの宗教は自らの力で救う宗教です。キリスト教は神が私を救う、私は神によって救われる宗教です。救いの条件として、人間が出来ることは何一つありません。救われることは必ず外部からの全能の力によるものです。罪によって堕落してしまった人類が救われる方法はただ一つ、イエス様の十字架によって救われるしかありません。神の恵みによって一方的に救われたことにただただ感謝するだけです。
2.賜物と行い
 日本語の聖書では口語訳も、新共同訳も、新改訳も「賜物」と訳しています。正統の神学に基づいて良い翻訳です。ところで、ギリシャ語、韓国語、英語(NIV)ではプレゼント(gift)と訳しています。ギリシャ語の単語だけ考えるとプレゼントが正しい翻訳ですが、しかし、単なるプレゼントでは神様の恵みの概念がありません。その面では日本語の「賜る」が神の恵みをある程度表しますので良い翻訳だと思います。救いは救われる資格がない私に与えて下さる神様の恵みの賜物です。神様の恵みを心から知らないと信仰生活は単なる戒めを守る(行い)水準で終わります。教会に来て、礼拝して、献金して、聖書を読んで、祈って、戒めを行うことで終わります。しかし、これらの事を全部行っても、その中に神様との生き生きとした恵みの交わりがなければ空しい宗教活動に過ぎません。恵みは難しい概念ですが、説明するものではなくて、心で感じるものです。
3.神様の作品
 「行いによる」と「行いをするため」は全然違う反対の意味です。宗教は行いを強調します。良き行いが救いの条件になっているところも多いです。しかし、パウロは良き行いを条件にした救いを徹底して否定しました。救われるための施し、献金、聖日を守ることは全然、役に立ちません。ですからキリスト教において聖日を守ること、献金を献げる行いは救われるための手段ではなくて、救われた証しであり、救われた目的です。良い行いをするように、良い行いをして日を過ごすようにと主は私達を救って下さいました。
 神様がお造りになる作品は人間が造る作品とは違います。人間は出来る限り最良の材料を使って少しでも気に入らない時は壊して最初から作り直します。しかし、神様は現在のありのままの悲惨な状態から新しい作品をお造りになります。神様がお造りになる作品は以前の作品を完全に否定することではなくて、以前の作品から新しい作品をお造りになります。過去を完全に否定するのではなくて、失敗の部分から、罪人の状態から、罪に弱い状態から新しいものをお造りになりました。そこに私達の望みがあります。私達の過去は不信仰ばかりでした。私達自身が見ても駄目でした。それでも神様は私達に新しい時間とチャンスを与えて下さいました。過去のことを考えると改善の見込みはありませんでした。しかし、神様は私達を滅ぼさないで、新しい時間を与えて下さいました。神様の作品は長時間をかけて造り上げていきます。ですから、誰でもチャンスはあります。人は誰でも神様に恵まれ、生まれ変わって、神様のご栄光を現す人になれる可能性があります。神様は今年も素晴らしい作品を作り続けますので私達も期待しましょう。