聖 書:ピリピ4:10~13
4:10 さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
4:11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
前回の8・9節は道徳的な勧めであった。パウロが最後に伝えたかったことであり、ピリピ教会に必要とされた大事なメッセージだった。
Ⅰ.ささげものへの感謝(10節)
10節はささげものへの感謝である。パウロの手紙の最後に記されることが多い。この時代に教会の経済は厳しかったことがパウロの手紙の端々からも伺える。今の私たちを見て、何よりもお一人一人が精一杯ささげられていることを感謝する。私たちの教会も、教団も有り余るもので運営されているのではない。そのことは良いことだと感じる。Cf.中世の神学者トマス・アクイナスと、ローマ教皇イノンケンチウス二世との会話。教皇が山と積まれた財宝に囲まれていて、そこにトマス・アクイナスが来る。教皇は言う「トマスよ、『金銀は私たちにはない』という時代は終わった」。トマスは答える「教皇、確かに。しかし、教会は、『キリストの名によって歩きなさい』という力をも失った」…財産、権力は人を腐敗させやすい。私たちは精一杯のものをささげ、神様に頼って歩むことが、最善の歩みである。
Ⅱ.主にある歩みへの感謝(11・12節)
パウロは献金を一切強要せず、自発性を喜んでいる。富んでいることは良いことだが、貧しさを恐れないことも言っている。富んでいることでの働きもあるが、貧しければ働けないことでもない。富にも貧にも、飽くこと飢えることそれぞれに処すことはできる。Ⅱコリント6:8~10を見るとさらに興味深い。ほめられること、そしられること、惑わすようだが、真実であり、知られていないのではなく、認められ、死にかかっているようでも、生きている、懲らしめられても、殺されず、悲しんでいるようだが、喜んでいる、貧しいようだが、富んでいる。一見、侮られるような様子でも、神様が働いて益とされる。この世の必要はあるが、教会の働きも、信仰生活もこの世の価値、判断、基準では測れない。どのような状態でも神様の働きに期待することができ、神様の業を拝することができる。
Ⅲ.主にある強さへの感謝(13節)
13節には「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」とある。私たちが弱い者でも強くされる、恐れる者でも勇気を持つことができる、小さな者でも大きくされる。 … Ⅱコリント12:9~10では、弱さを誇る、弱い時にこそ強いと結論付けられている。弱さを誇ると言うと、負け惜しみを言っているのか、自分の傷をなめているのかと思われもする。強い人はいるだろうが、絶対的な強さはない。もっと強い人と比べると、惨めな思いをすることになる。絶対的な強さを持つ神様に寄り頼むことが、強さを持つことである。ささげていくこと、足ることを学ぶことからさらに積極的に「できる」と導かれる。自分の弱さに閉じこもらない。神様によって何事でもできるとは何と素晴らしい恵みではないか。
神様にあって弱さは新たなる力を生み出す(捕えられたサムソン、見えなくなったパウロ…)。偉大な神様を仰ぎ、その力、強さをいただいていこう。