聖 書:コリント人への第一の手紙 第2章14~3章9節
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
3:4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。
3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
3:8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。
3:9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。

本田弘慈先生は育児に関して「幼児期には手がかかり、成長期には金がかかり、成人すると気がかかる」と話されました。確かに人が自立するまでには、多くの人の世話を受けています。信仰者の成長にも同じようなことが言えます。私たちを創造されたのは「父なる神」、贖って下さったのは「子なる神・救い主イエス・キリスト」、そして育てて下さるのは「聖霊なる神」です。

Ⅰ.聖霊ときよめについて
聖霊は父なる神、子なる神と共に存在されるお方です。聖霊は「キリストの霊」としてペンテコステの日に降臨されました。イエスは「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さる」(ヨハネ14:16)、昇天前には「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」(使徒1:4)と命じられました。聖霊は「助け主、慰め主、弁護者」などとも呼ばれます。「聖(きよめ)」という言葉の意味は「俗なるものからの分離」と「聖なる方の所有となる」ということです。このことを可能にして下さるのが聖霊の働きなのです。

Ⅱ.三種類の人たち
1.生まれながらの人は「神の御霊の賜物を受け入れない」人たちです。聖書は「バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受ける」(使徒2:38)と教えています。
2.肉に属する人たちは互いに嫉み争いをしている人たちです。聖書は「聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」(エペソ4:3)と教えています。
3.霊の人たちは聖霊に満たされた人たちです。聖書は「御霊に満たされて」(エペソ5:18)と教えています。出エジプトの歴史はナイル川とヨルダン川という二つの川によってエジプト、荒野、約束の地に三分割することができます。エジプトは生まれながらの人、荒野は肉に属する人、約束の地は霊の人を表しています。あなたはどこに属しておられますか。

Ⅲ.聖霊によるきよめ
私たち人間は肉体的、精神的、霊的面(信仰面)にも一足飛びに大人になる訳ではありません。パウロでさえも新生の経験をした後に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ7:19)と告白しています。そうした経験は成長過程と捉えることができます。そのために健全な信仰生活を送ることが重要です。第一は「求めること」です。「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11:13)。第二は「信じること」です。「信仰によってキリストがあなたがたの心のうちに住み」(エペソ3:17)。第三は「従うこと」です。「神がご自身に従う者に賜わった聖霊」(使徒5:32)。生涯キリストに従うことは聖霊によってきよめられた者の証しです。

「聖霊によるきよめ」とは、「聖霊に満たされ続ける」ことに他なりません。土の器の中に聖霊を宿すと共に、土の器ごと大きな神の愛の中に包み込まれる、ということも重要なポイントです。