信仰の継承①赤山講話⑥

聖書:イザヤ6:1~8

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、
6:3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
6:4 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」
6:8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

今年の説教のテーマの一つは続けてきた「信仰の継承」であり、バックストン著作集から語ってきた。イザヤ書6章のイザヤが神殿の幻を見た箇所はバックストン師の代表的な説教の一つである。

Ⅰ.イザヤの過去の奉仕
1:1からイザヤが神様に仕えた時代、長さが分る。南王国ユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの諸王の時代であり、40年以上、50年に及ぶ期間になる。イザヤは若き日に主の召しを受け、ウジヤの時代から預言者としての活動を始めた。ウジヤ王は南王国ユダの最盛期の王である(歴代第二26章参照)。軍事的にも経済的にも成功を収めた。ユダの民はウジヤ王と共に繁栄と平和を享受した。ユダの民は順境にあって心はゆるみ神様から離れ堕落していた(1:4~6)。背信のユダに対して神様の警告をイザヤは告げる「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(1:18~20)。神様に立ち帰り、悔い改めるなら、赦しと回復があることを語っている。

Ⅱ.イザヤの現在の状態
6章はウジヤ王が死んだ場面から始まる。ウジヤ王は神様に祝福されたが、おごり高ぶり、祭司しか許されない香を焚こうとし、ツァラアトになり亡くなった(歴代第二26章参照)。ウジヤ王は神様に背いたが、国を最盛期に導いた王が亡くなる外的な危機である。イザヤ自身の内的な部分も知ることができる。イザヤは若き日から預言者として仕えた(1~5章)。しかしこの時、神様に仕える者として自分を問う内的な危機を持っていた「唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」(5節)。国としての危機、イザヤの内の危機が6章の幻の背後にある。神様は普段の時、好調の時だけではなく危機の時に語られ、その時を用いられる。神様は神殿に満ちた神様の臨在、栄光、異象をイザヤに見せられた。バックストン師は「その裾は神殿に満ち」(1節)を、神様が満ちておられるゆえに逃れられないと言われる。イザヤは神様の臨在に満ちた神殿に、天の存在であるセラフィムが飛びかけり賛美している光景を見た。イザヤは神聖さに圧倒され、自分は滅びるという絶望感を持った。自分は神様の前に何者でもないという認識から神様の恵みの業は始まる。

Ⅲ.イザヤの未来に向って
セラフィムは祭壇の燃える炭をイザヤの唇に触れさせた。咎を取り除き、罪を赦す神様のきよめの業がなされた。イザヤは既に神の働き人とされ尊い働きに与っていた。なお、きよくされることが必要であった。働き人としてさらに主の御業を進めていくためにイザヤは神様に取り扱われる必要があった。その上で「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(8節)との応答がある。神様の聖さ、絶大さを知り、神様との直接の交わりを持つ確信をイザヤはいただいた。イザヤの真価はこれ以降の働きに表わされている。私たちを聖める炎は聖霊の炎である。この聖霊の炎は私たちの汚れを聖め、愛の力、宣教の力を与える。

神様は今も同じく私たちに臨まれている。私たちをさらに高みへと引き上げようとされている。