説 教 題:「兄弟としての交わり」      井上義実師

聖書箇所:ヘブル2:10~18  交わりと宣教②

2:10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
2:12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」
2:13 また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。
2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
2:16 当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。
2:17 したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。
2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

本年度の教会標語は「私たちが互いに愛することにより、外へと向かう力をいただく」である。第一に掲げた「互いに愛する」を主題に語る第二回である。

 

Ⅰ.光が明らかにされた

へブル人への手紙は固い食物だと思う。ヘブル語を話すユダヤ人たちへイエス様は全てを超えた救い主であることを示す。ユダヤ人は旧約聖書で止まってしまい、旧約聖書こそが救いのための唯一の道であると信じていた。神様は全ての人の救いのためにイエス様を送られ、救いの道を完成してくださった。この新約聖書の出来事と真理をユダヤ人に説き明かしているのが本書である。端的に言えば、律法(十戒)⇒福音(イエス様)、行い⇒恵み、文字に刻む⇒心に刻むへと救いの恵みは開かれていった。旧約聖書と新約聖書との間には断絶はない、旧約聖書が土台となって、新約聖書は新しい建築が建てられた。旧約聖書の限られた救いが、新約聖書の区別のない救いへと拡大された。救い主イエス様は旧約聖書の時代には彼方の幻のようであったが、新約聖書では眼前の光となった。

 

Ⅱ.十字架が明らかにされた

へブル人への手紙はイエス様ご自身を表している。この箇所では10節に「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされた」とある。イエス様が救い主であることが示されている。イエス様がこの世に生まれたのは、救いを表すためであった。救いを完成する道は、神様であるイエス様であっても高く、遠く、狭い道であった。イエス様が果たされることの最後は全てをはぎとられて十字架で死なれることであった。イエス様はそこまで従い通してくださり、完全な救い主となってくださった。イエス様の願いは父なる神様の救いの計画がその通り実現することであった。

 

Ⅲ.兄弟であることが明らかにされた

イエス様の救いは、今や私たち一人一人に及ぶ。11節に「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」とある。救われた私たちはイエス様によって兄弟姉妹である。イエス様の救いは、ここでは「聖とする、聖とされる」と記されているように、神様の聖さに与ることでもある。モーセにはファラオの皇子の衣装、ダニエルにはバビロンの長官の衣装が用意された。神の子には神様に相応しい聖い装いを持つ者である。

私たちを兄弟と呼んでくださるイエス様は、私たちが苦難や試練の中にある時に助けてくださる(18節)「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」。私たちの苦しみを決して見逃さないで、私たちの苦しみに届いてくださる。

 

私たちをつないでいるものは、イエス様の十字架による救いである。これ程、尊いつながりはない。教会で共にあるお互いの交わりを大切にしよう。この世にイエス様のあがないによる神様の愛を知らせていこう。