聖書箇所:マルコ16:15~20
16:15 それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
16:18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
16:19 主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。
2月は信徒懇談会、予算総会を迎えて次年度に向けて大切な時期にあった。先週はお二人の告別式を執り行った。私たちは哀悼を覚えつつ、お二人の地上の歩みを思い、信仰を受け継ぎ、残された良きものの上に立って歩もう。
Ⅰ.弱さや不信仰を越えて
マルコの福音書の最後、マタイ28章と並んでの大宣教命令である。
イエス様は十字架で死なれ、3日後によみがえられた。復活のイエス様が女性たち、弟子たちに現れたことを16章は記す。16章はずっと否定的な言葉が並ぶ「震え上り、気も動転し、…恐ろしかった。」(16:8)、「嘆き悲しんで泣いている」(16:10)、「聞いても信じなかった。」(16:11)、「信じなかった」(16:13)。イエス様は弟子たちの「不信仰と頑なな心をお責めになった。」(16:14)とある。
イエス様の十字架と復活の話は当事者となった彼らにとっても直ぐには信じがたい話であった。人間の弱さ、不信仰という欠けを強く感じる。彼らが責められるような有様であってもイエス様は立ち上がらせ、ご自分の働きへと遣わされることが記されている「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)。
Ⅱ.遣わされる方の真実
イエス様は欠けのある弟子たち、信徒たちを信頼しておられた。彼らに終わりに至るまでの全世界への福音の宣教を託された。福音とは何かについて具体的に語られている。
・信仰を伝える:「信じてバプテスマを受ける者は救われます。」
言葉で語ることである。誰でも救いの証しを語ることができ、救いの御言を伝えることができる。
・しるしが伴う:「悪霊を追い出し、新しいことばで語り」
「蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人は癒される」
特別な働きであり、どこでも、誰でもというものではない。その場所、その時に相応しいしるしを見せてくださる。
イエス様は私たちにも大きな期待を持っておられる。私たち自身を見るのではなく、遣わされる方の真実を見上げていこう。弱さを持つテモテに対して「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。…真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として…」(テモテ第二2:13~15)と励ます。神様は私たちを力付け、イエス様の救いの証し人として導いてくださる。
Ⅲ.共に働かれるイエス様
復活のイエス様は父なる神様の御元へと上っていかれた。神様の右の座、勝利と栄光の座にお着きになった。天に帰られたイエス様はもう地上の私たちと関りが無くなったのか。そうではなく、イエス様は共にいてくださる「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。イエス様は共に働いてくださる「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らと共に働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(16:20)。私たちはこの世で孤独な、孤高な存在ではない。私たち一人一人にイエス様は共におられ、教会の内に共にいてくださる。
最も大きな神様のしるしは、イエス様の十字架による救いが一人一人の魂の内になされることである。新しい年度も一人の救いのために祈り、労していこう。私たちは共に信仰の喜びに満たされながら、イエス様と共に遣わされていこう。