聖書箇所:ペテロ第二3:8~15  聖書全巻通読第61巻

3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。

聖書の最後は永遠に至るヨハネの黙示録で閉じられていくように、聖書の最後に近づくほどイエス様の再臨と終末が語られるようになる。今朝はペテロの手紙第二が開かれてきた。終末に至るまで戦いは多いが、教会の歩み、信仰者の歩みが守られていくことを見て行こう。

Ⅰ.神様の光の内を歩む
1章1節には「使徒であるシモン・ペテロから」とあり、ペテロが(3:1)「二通目となる手紙」を書き送っている。1章16節以下にはペテロが、イエス様が栄光の輝きを見せられた変貌山(マタイ17章他)を目撃したこと、神様の御声を聞いたことが記されている。私たちが地上の歩みで戦いはあるが、私たちは神様の栄光につながっていることをペテロは強調している。
私たちが救いに与ることは、この世にあって、どのように変えられるか、その恵みをペテロは述べている。救いに与った者は神様の輝きの内にある。神様の栄光と栄誉に与っている(1:3)。信仰・徳・知識・自制・忍耐・敬虔・兄弟愛・愛の実を結んでいる(1:5~8)。永遠の御国に入る恵みを持っている(1:11)。歴代の聖徒たち、信仰にある今の私たち、これからの信仰者たちに変わることなく備えられている。

Ⅱ.偽りの闇から逃れる
2章1節にはイスラエルの歴史の中で現われた偽預言者と同じように、教会の内にも偽教師が現れると記しています。この時代に、ペテロが手紙を書き送ったアジアの地域(ペテロ第一1:1)にはグノーシスを中心にした異端の教えが入り込んできていた。
偽教師は(2:1)「主さえも否定し」とある。イエス様さえ拒むのであれば異端ではなく異教であるとさえ言える。彼らが持ち込むものは、放縦、貪欲、うその話(2:2~3)である。2章全体にはこの偽教師の姿が出てくる。彼らがいかに不道徳であり、滅びに向かっているかが記されている。
ペテロは私たちが神様に従っていくことを、創世記に出てくる悪がはびこった時代のノアの話、非常に罪が重かったソドムとゴモラの話から語る。神様は大洪水の中からノアとその家族を救い、天から降る硫黄の火からロトとその家族を救け出された。どんなに周囲の闇が深かったとしても、神様に従うならば、救いの道は備えられていく。
ペテロの時代に明らかにされた問題が、終末に向かってさらに深刻になるが神様は決して見過ごされてはいない(2:9)。ノアの家族、ロトの家族のように、私たちを滅びの中から救い出してくださる。

Ⅲ.再臨を待ち望む
3章はイエス様の来臨と終末の完成が記されている。人は何時そのようなことが起こるのかと疑い、嘲りもする。主の日、神の日は神の時であって、私たちの時ではない。(3:8)「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とある通り、時間に限りがある私たちが、永遠の内におられる神様を推しはかることはできない。神の時に委ねるものである。
終末はどのような経緯をたどるのかも詳しく分からない。天の万象が大音響とともに消え去り、焼けて崩れ去ることになる(3:10)。義の宿る新しい天と新しい地が生まれる(3:13)。夏の間、飛んでいたチョウは幼虫、サナギを経て成虫になる。サナギの間のことはよく分かっていない。サナギの中は、一旦どろどろの溶けた状態から羽根を広げる成虫が形作られていく。私たちは小さなチョウ一羽のこともよく分かっていない。
今の世界が新天新地に生まれ変わる。全てが無くなって、全く新しい世界が形作られる新創造であり、再形成されるチョウとは違うが、神様の輝きに満ちた完成された永遠の世界に招き入れられる。

神様はやがて現される神様の永遠の御国にすべての人を招いておられる。神様はすべての人が悔い改めることを願い、神様の救いに与ることができるように忍耐されている。イエス様も十字架による救いを成し遂げるために、忍耐された(へブル12:3)「あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。」。私たちも忍耐によって神様の永遠の御国へと導かれていく(ローマ8:25)「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」。
その日は私たちの救いの日となる(マラキ4:2)「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」。