聖書箇所:マタイ21:28~32

21:28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
21:29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
21:30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
21:31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。
21:32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。

イタリアでの冬のオリンピックも半分が進んできたが、私は改めて新鮮な思いを持つ。10代20代の若いアスリートたちが一生懸命に真剣にだがのびのびとプレーし、結果も残している。昭和のオリンピック選手は重圧に押しつぶされ、笑顔もなかった。昭和の根性、気合いの精神論は、時代がそうであったが遠くになった。どの世界にあっても、無論、教会も若い人たちが生き生きできるのが良い。重圧や押し付けではない、必要なものは伝えていくが、彼らが新しい時代を切り拓いていくのを支援し、見守りたい。

Ⅰ.ぶどう園の例え
今日の箇所は、イエス様がぶどう園の例えから神様を信じ従うことを、祭司長たちや民の長老たち、指導者に語られている。その例え話とは、ブドウ園の主人に2人の息子がいた。イエス様の例え話に出てくる父親は神様を指しており、息子は私たちを指している。父親は兄息子に「今日、ぶどう園で働いてくれ。」と言った。兄息子は「行きたくありません。」と言ったが、思い直して働きに行った。父親は弟息子にも同じ頼みをした。弟息子は「行きます。」と言ったが、結局は行かなかった。
良い答えをしたのは弟息子の方である。しかし、良い行いをしたのは兄息子の方である。この後でイエス様は良い答えをしたが何もしなかった弟息子が、祭司長や長老たちであると言われた。そして、最初は断ったが、思い直して働いた兄息子が、取税人たちや遊女たちだと言われている。イエス様は、初めはどうあれ、思い直して信じることが大事なことだと言われた。祭司長や長老たちは言葉だけ、見かけだけが立派に過ぎないことを指摘されている。しかし、ローマ帝国の支配の手先、嫌われ者の取税人も、お金のために身を売る遊女であっても、心を入れ替え、神様に寄りすがるならば神様は受け止めてくださることを語られた。語っている言葉や見かけだけでの判断ではなく、神様は心をご覧になっている。

Ⅱ.人間の心の本質
イエス様は心を問われたが、そもそも聖書は人間の心をどのように記しているのだろうか。聖書の初め、創世記5章の終わりにノアが出てくる。ノアの箱舟、ノアの洪水は良く知られている。ノアは最初の人アダムから数えて10代目になり、人類の歴史はまだ始まったばかりと言える。ノアの時代を聖書は詳しく述べる「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:5~6)。神様はアダムとエバを創られ、彼らは禁じられた木の実を食べた。その罪によって彼らはエデンの園から追放された。アダムの記憶がまだ薄れない内から人間は、自己中心、欲望のままに生きて、神様の御心を踏みにじるようになった。人間の悪、罪が初代のアダムから始まったように、人の心は低い方へと流れていく。聖書の歴史は、この後のアブラハムからのイスラエルの歴史である。聖書には人間の信仰も尊さも描かれるが、圧倒的に不信仰や卑しさ、汚れの方が多く出てくる。

Ⅲ.神様の愛の導き
元々、汚れた心を持っている私たちがどのようにして悪や罪から離れることができるのだろうか。私たちは無理、無理、絶望、できませんと言わざるを得ない。
今日の聖書箇所はこの後に2つの例え話がつながっている。イエス様は21:28から22:14まで一つながりで3つの例え話をされた。最初のぶどう園の話、2番目のぶどう園の話、22:1からは王子の結婚披露宴の例え話となる。3番目の例え話は神様が私たちに用意されている天の御国、天国の話である。王は神様、王子はイエス様、招かれるのは私たちである。
王は王子の結婚披露宴のために招待状を出した。招かれるのは栄誉な話と思うが、招待客はそれぞれ自分の都合で来ず、何と王の使いを侮辱して殺したとある。王は怒って徹底的に報復をした。その後、使いは大通りで皆に声をかけ披露宴に招いた。たくさんの人が集まった中に礼服を着ていない人が一人おり、この人は外に投げ出されてしまったとある。急に披露宴に出るように言われて、用意ができなかったのではと思う。しかし、この当時王のような立派な人が主催する披露宴は、礼服が用意されていて着替えて出席できた。この人は汚れた普段着を脱ぎ捨てて用意された礼服を着るだけで良いのに、それをしなかった。

このことから読んでいただいた最初の話に戻る。父親のぶどう園に心を思い直して働きに行った弟息子を父親は喜んだだろう。言葉ではなく見かけだけではなく心を神様は見られる。しかし、私たちは心の悪や汚れをきよめ、自分を正すことはできない。王は礼服を用意して、誰でも披露宴に招いておられる。神様は天の御国に私たちが入れるように、既にきれいな素晴らしい礼服を用意して招いておられる。
この礼服とはイエス様の十字架の血潮によってきよくされ、神様に相応しい心に整えられることである。聖書は汚れた普段着を脱ぎ捨て、神様の御国に入れる礼服を着ることを古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るという言葉で表現している「ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」(エペソ4:21~24)

この世のものはやがて汚れ、古び、破れる。神様が用意された新しい服は新しくされ続け、天の御国に入れていただける装いである。今、すでにあなたのために新しい服は用意されている。今日、その新しい服を身に着けよう。あなたの日々は新しく輝いたものとなる。