聖日礼拝説教要旨‘26.4.12
教団標語「次のスタートラインにつく」教団改革4年目
教団聖句Ⅰ イザヤ43:20後半・21

説 教 題:「新しい主の業」   井上義実師
聖書箇所:イザヤ43:16~21

43:16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
43:17 戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。
43:18 先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。
43:19 見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。

先週はイースター・復活日の礼拝を迎えた。受洗された方、転入会された方々があり心から感謝をささげる。新年度ととなり、2026年度教団聖句イザヤ43:20・21の箇所から語る。

Ⅰ.過去の恵み
16・17節には「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。」とある。出エジプト記14章、迫って来るエジプトのファラオの軍勢からイスラエルの民が救われたできごとである。神様は海を2つに分けられイスラエルの民は皆渡ることができた。しかし、エジプトのファラオの軍勢は途中で海の波にのまれてしまい全滅した。
これ程に大きな奇跡、鮮やかな勝利は、旧約聖書でもなかなか見られない。イスラエルの民にとって、神様の偉大さを記念する恵みの体験となった。イスラエルの歴史を通して神様は度々大きな奇跡を起こされたので、イスラエルの民の信仰は奇跡を基にした。コリント第一1:22「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。」とある。イスラエルの民は目に見える奇跡がなければ信じない、いびつな信仰になってしまった。
私たちの信仰は何に拠っているのか。目に見える奇跡の経験がなかったとしても、私たち一人一人がイエス様の十字架を通して救いをいただき、神様の愛に生かされているのが何よりの奇跡である。私は神様に救われて当然ではなく、罪赦され、滅びから命に移されたことは神様の大いなる愛の業である。神様への感謝が私たちの基盤にある。

Ⅱ.現在の感謝
私たちが今いただいているイエス様の十字架による救いの恵みを見ていこう。19・20節には「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」とある。
荒野、荒れ地には人は住まず、動物さえもまれである。水はなく大地は乾ききり、命は乏しい。神様はそこに道を設けられ、川を流れさせてくださる。この光景は私たちの心に当てはまる。皆さんは資質も能力もすばらしいものをお持ちだが、神様と出会う以前の心、内面を考えていただきたい。荒野のように乾いていなかっただろうか、命が宿る豊かさはあっただろうか。荒野、荒れ地と言わなくとも、乾きや乏しさを感じて、誰もが心と魂に潤いや、豊かさを求めていたのではないか。
イエス様は私たちに語られている「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)。また、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)と言われ、イエス様はいのちの水を豊かに与えてくださり、神様の命に満たしてくださる御方である。
イエス様の救いによって、私たちの内にあった荒野、荒れ地は潤され、豊かにされた。神様の祝福に与ることができ、神様に生かされていることは感謝以外にはない。

Ⅲ.将来の完成
神様の救いの恵みに与った私たちを、神様は「わたしの民」「わたしの選んだもの」(20節)、「わたしのためにわたしが形造ったこの民」(21節)と、特別なものとしてくださっている。「わたしの栄誉を宣べ伝える。」(21節)と神様の栄光の証し人であるとまで言われている。
神様の救いの恵みに与っている私たちにこのように神様は語りかけられている「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(コリント第二4:16~18)。私たちはそれぞれ、時に押しつぶされそうになりながら、苦闘を覚えて日々を過ごしている。私たちを取り巻く乾いた荒野、命のない荒れ地と言える。私たちにとって大きなプレッシャー、ストレスであるが、一時の軽い苦難と聖書にある。神様は大丈夫、気にしなくて良いと気休めを言われるのではなく、永遠の視点から見るならば私たちに備えられている栄光の大きさ、豊かさから見て小さいと言われている。
私たちの苦難、苦闘、患難にはやがて終わる期限があるが、神様の栄光、栄誉、輝きは永遠であるという。荒野、荒れ地にあると思える日々の戦いが軽くなるということではない。しかし、どんな苦闘にあったとしても、神様は私たちに愛を注ぎ、恵みの内に保ってくださり約束を果たしてくださることを受け止めていよう。

過去の聖徒たちも皆、永遠の神様を見上げ、希望を抱いて歩み続けていった。私たちも永遠につながっているものとして、新しいことを行うと言われる神様から、力と勇気をいただきながら共に歩もう。