聖日礼拝説教要旨‘26.5.3
2026年度教会聖句Ⅰ=互いを愛する=

説 教 題:「互いに励まし合う」   井上義実師
聖書箇所:へブル人への手紙10:19~25

10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
10:21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
10:22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
10:24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

今朝は本年度の1つ目の教会聖句から、教会の中で「互いを愛する」ことについて語っていきたい。教会に神様の愛があふれている。教会に一致がある。そうであるならば、私たちはこの世に神様を表していくことができる。今朝の話は10:25の「励まし合いましょう。」が中心になる。

Ⅰ.十字架の救いから始まる
教会の中で互いを愛することは何から始まるのか。19節「イエスの血」、20節「イエスはご自分の肉体という…」とあるが、イエス様が十字架で流してくださった血潮、十字架で裂かれた御体こそが、私たちの救いの土台である(コリント第一1:18)「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」。
イエス様の十字架による救いは、20節「新しい生きた道」である。イエス様が私たちのために開いてくださっている道は、この世には無かった全く新しい道であり、人を守り、導き、生かす道である。道には出発点、起点があって、到着点、終点がある。私たちの救いが出発点、起点となり、神様の御国が到着点、終点となる。イエス様は私たちを罪と滅びから救い出してくださり、地上の生涯を導き、神様の御国に引き上げてくださる。私たちは迷うことは無い、安心してイエス様に全てを任すことができる。
イエス様が備え、導いてくださる道を私たちは一人で歩むのではない、教会にある兄弟姉妹と共に励まし合いながら歩む。

Ⅱ.心も行いも整えられていく
イエス様の十字架の救いが土台になり、十字架の救いから御国への道を歩んでいく。私たち自身もイエス様の新しい生きた道を歩む中で、霊肉共に変えられていく。22節「邪悪な良心をきよめられ」とある。良心が邪悪とは一体何かと思う。私たち人間の良心は、アダムとエバがエデンの園で中央にある木の実を食べて以来、汚され弱くなってしまった。いとも簡単に悪へと転落してしまう。イエス様の十字架の血潮は、弱い私たちの心を強めてくださる。
22節「からだをきよい水で洗われ」とある。旧約聖書には祭司が神様の働きに携わる前に水できよめられて祭司の服を着た。立つも座るも、寝るも起きるも、からだによって私たちは行動している。心がきよめられ、からだもきよめられてこそ、思いも行動も神様に相応しく整えられていく。イエス様の新しい生きた道を歩む私たちは、神様のきよさを身に着けていく。
私たちは救いに与り、神様の愛、きよさ、義に触れながら、神様に近づけられていく。それは自己満足のためにあるのではなく、人に仕えていくためにある。

Ⅲ.互いに励まし合う
25節「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」とある。私たちがイエス様の十字架の救いに与り、神様に相応しく変えられていく。その上で信仰の友に、隣人に目を向けていく。
先週は教区の毎年の春の行事「全教会の集い」が開かれた。KGK総主事の吉澤慎也氏に来ていただいた。コリント人への手紙第一12章から私たちはキリストの体として一つにされていることが語られた。コリント人への手紙第一12章に改めて目を止め、22~25節が示される。体の中で強い部分より弱い部分、見栄えがする部分ではなく見劣りがする部分が重要であるという。そこには配慮、カバーが必要とされている。励まし、力を注ぎ、共に立ち続けていくことが大切である。