説 教 題:「生きるのも死ぬのも」 井上義実師
聖書箇所:ピリピ1:20~26
1:20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。
1:26 そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
本年度の2つ目の教会聖句は、20節「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」である。私たちが宣教の力をいただいて、神様の愛を宣べ伝えることを願っている。
Ⅰ.パウロの強さ
この手紙を書いたパウロは今、生きていることも、やがて、天に帰ることも全ては主のためであると言う。パウロは命がけで、死に物狂いでイエス様を宣べ伝えていた。パウロの伝道旅行の困難さはコリント第二11:23~28に詳しい。ユダヤ人のむち打ちが5度、ローマ人のむち打ちが3度、石打ちの刑が1度、船の難破が3度、度々の難をかいくぐり、眠れない、飢え渇き、裸でさえいた。そして、関わりのある教会の心配を絶えずしていた。
パウロは苦難を受けながらイエス様を伝え続ける情熱はどこにあったのか。以前は教会の迫害者サウロであったのに、神様の限りない愛によって変えられたことにある。敵であったもの、遠く離れていたものを、見捨てず、罰せず、救い出してくださったことへの心からの感謝によってである。パウロは自分をテモテ第一1:15で「罪人のかしら」と言っている。パウロは自分の原動力をコリント第二5:14では「キリストの愛が私たちを捕えているからである」と言っている。ここにパウロの強さの源がある。
Ⅱ.私たちの弱さ
私たちは、パウロは特別な存在だからここまでの献身、情熱に生きていたと思う。自分は普通の平凡なクリスチャンだと思いやすい。確かにパウロは教会の歴史の中で最大の人物と言える。私たちはパウロの信仰や生き方と比べてどうだ、他の誰かと比べてどうだと言う必要はない。ピリピ3:16「ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」とパウロは言う。今ある自分を認めて、そこから出発しなさいと言われている。
自分に弱さがあっても、欠けがあっても、心へりくだって、神様を見上げて生活も、仕事も、学びも歩み出ていくということである。パウロは誰よりも強さを持っていたが、彼はそれを自慢したり、人に押し付けたりしてはいない。心を一つにして、自己満足ではなく、人のために生きるものであってほしいと願っているピリピ2:2~3「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」。私たちは弱いものであるが、隣人のために小さなささげものを、真心をこめてささげなさいと言う。
Ⅲ.共に生きる喜び
パウロはピリピの教会に心を向け、信徒たちが神様にある喜びを持って生きるように願っている。ピリピ4:4~7「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と言っている。
主に生かされている私たちが、神様を喜びながら生きていることが何よりも大きな証しであり、宣教の前進につながっていく。ピリピの教会、信徒に戦いがあったからパウロはこの手紙を書いており、喜びが満ちあふれるために「喜びなさい」と語っている。私たちのどんな中にも、喜びをもたらしてくださる神様の愛を信じて私たちも進んでいく。
私たちが喜びとするものはこの世にもある。幸福だと思えるもの、感謝だと思えるものがあることは素晴らしい。しかし、それらが無ければ人生は空しいのだろうか。主にある喜びは生も、死も超えて、神様の永遠の内にある。私たちは失望や落胆に陥らず、気持ちが途切れてしまわず、主に目を上げてそれぞれの歩みを続けていこう。
