聖日礼拝説教要旨‘26.8.16

ウエルカム礼拝

 

説 教 題:「イエス様のまなざし」   井上義実師

聖書箇所:ルカ19:1~10

19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

今年のウエルカム礼拝で、「神様の招き」というテーマで話をしている。今日はエリコの町のザアカイの話をする。CSの子どもたちにはよく話をする箇所だが、礼拝では随分話したことが無く何時だっただろうかと記憶にない。

 

Ⅰ.私たちを知っておられるイエス様

イエス様はエルサレムに向かって最後となる旅を続けられ、エリコの町を通られた。エリコはイスラエルのほぼ中央にあって、東西南北の交通の要所であった。

この町にザアカイと言う取税人のかしらがいた。多くの人や物が行き交う町なので、税金の額も大きかった。ザアカイの下には何人かの取税人がいてその元締めをしていた。ユダヤ人にとって自分たちを占領しているローマに税金を払うこと自体が耐えられないことであった。税金に上乗せをしてもうけている取税人は許しがたいローマの手先であった。エリコで取税人のかしらであったザアカイは金持ちであったが、悪いことで得たお金であり、ザアカイが豊かになるほど多くの人々の恨みを買っていた。

この物語を読んでイエス様はヨハネ福音書4章のサマリアのスカルの町の一人の女性と同じように、ザアカイを出会う前から知っておられた。ザアカイがどんな生活をし、どんな気持ちで暮らしていたのかをご存知であった。私たちのこともイエス様はご存知なのである。私たちの心を知っておられ、何を求めているのかを分かっておられる。イエス様が私たちを裁くために知っておられるのではなく、私たちを愛しておられるからこそ私たちのことを知ろうとされているのである。

 

Ⅱ.私たちを見つめられるイエス様

ザアカイはお金を持っていたが、お金では満たされないものを無意識に感じていた。エリコにイエス様がやって来られることを聞き、イエス様に会ってみたいと思った。イエス様は取税人、罪人の友、仲間だと言われており、実際にイエス様の弟子には元取税人のマタイがいた。

ザアカイが通りに出てみると人だかりで背の低かったザアカイはとても見られなかった。ザアカイが皆に愛されているのなら、皆が道を空けてくれて前に進むことができただろうが、嫌われ者のザアカイを誰も気にかけてくれなかった。

ザアカイは道の近くにあったいちじく桑の木に登った。ザアカイはただイエス様を遠くから見ようとしただけだったのに、イエス様はその木に近づいて来られた。ザアカイを見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と語られた。町の誰もが顧みない自分に近づいて来られ、自分を見て、名前を呼んで、家に泊まろうと親しく語られた。ザアカイは心底驚いたことだが、喜んですぐにイエス様をお連れした。

ザアカイを見られたイエス様のまなざしは、今までザアカイが経験したものではなかった。普通の人はザアカイに目を合わせようとはしない。ザアカイの目を見ても憎しみや怒りのまなざしかも知れない。また、さげすみや卑しめるまなざしかも知れない。イエス様のまなざしは偏見や悪い感情に捕らわれておられない。場面は違うが、イエス様を知らないといったペテロの時と同じように、愛情を込められた深いまなざしはザアカイの心を捉えただろう。

 

Ⅲ.私たちを探しておられるイエス様

イエス様はザアカイの家に客として来られた。人々はイエス様の様子を見て文句を言っていたが、ザアカイは心から喜んだ。イエス様に財産の半分を貧しい人たちに施すこと、脅し取ったものは4倍にして返すと言った。自分がこれまで得て来たものを全て失うような決意だった。このことは、イエス様がそのようにしなさいと指図されたのではなく、自ら進んで言っている。ザアカイの喜びは表面のものではなく、ザアカイを揺り動かし、造り変えるものであった。目に見えるお金やものを第一としていたザアカイが、目には見えない神様にある喜びや愛に目覚めたことが分かる。

9節には「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」とある。ザアカイは人々から憎まれ、さげすまれていたが、神様の救い、神様の愛は全てを超えて注がれていることが分かる。別の箇所で、イエス様は取税人、罪人たちと交わりを持っておられた時に、自分を正しいとする人たちから文句を言われたことがある。ルカ5:30~32「すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。『なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。』そこでイエスは彼らに答えられた。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。』」とある。この場面と同じことが起こっている。

 

私たちは自分を正しい人間だと思い、人を非難しやすいものである。神様は目に見える正しい、正しくないという判断ではなく、私たちの内側、心の思いを問われている。神様の前に私は正しくありませんと自分を認め、自分の心の王座を明け渡すことは勇気が要る。イエス様は愛のまなざしを持って招いておられる。イエス様に向かって一歩を踏み出し、イエス様にある喜びの交わりに入ろう。