聖書箇所:詩篇46:1~11
46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
46:2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
46:3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ
46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
46:5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
46:8 来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
46:10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
地球温暖化から今年も世界的な酷暑の夏になった。関東地方は他所と比べればやや過ごしやすい日々だが、暑さは厳しい。日本は高い山から海までが近く、川の流れが美しい。「いのちの水の流れ」という題で語る。
Ⅰ.この世の恐れ
この詩篇に「地が変わり 山々が揺れ、海のただ中に移る」(2節)、「山々が揺れ動いても」(3節)とあるが、地震の有様を指している。先日は熊本で10年振りに大きな地震が起こった。中米のベネズエラやコロンビアで激しい地震が起こっている。南アジアのインドネシアも大きな災害を受けている。「水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し」(3節)とあるが、ここには水害が描かれている。温暖化の影響でどこででも水害が起こるようになり、先日の千葉の水害も大きな被害で復旧されていない。韓国、インド方面で大きな水害が起こっている。また、熱波が襲う中で、世界中で山火事が起こっている。これらは自然災害、天災と言える。
9節には戦いが出てくる。当時の武器である弓、槍、馬が曳く戦車が記されている。聖書の世界も戦争が絶え間なく起こっている。イスラエルも周辺諸国の侵略を受け、大国の間で揺れ動くことが多かった。現代は戦争が起こっている地域だけのことではなく世界全体を巻き込んでいく。これらは人が引き起こす人災と言える。
地震、水害、戦争これらの災害は今も私たちを脅かしているが、決して恐れ、怖じ、惑うことはないことを見ていこう。
Ⅱ.神様にある平安
神様は「避け所、力、強き助け」(1節)とある。私たちが神様の側に立っているなら、恐れることはない。「神はそのただ中におられ、その都は揺るがない。」(5節)と語られた。神の都はエルサレムである。エルサレムは城壁を巡らした強固な要塞であったが、単に軍事上の拠点というような意味ではない。神様がただ中におられるという神様の臨在があるからこそ、何ものにも侵されることはない、何ものをも恐れることはないのである。
エルサレムには神殿があり、聖所と至聖所が設けられていた。ソロモンによる神殿完成の奉献式の時に濃い雲のような神様の栄光が満ちた(列王第一8:10・11)。神の都エルサレムは敬うべき尊い存在とされた。エルサレムの神殿は、今は失われている。
私たちにはイエス様による尊い救いが与えられている。救いに与ったものとして私たちは聖霊の宮、神の宮とされる「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」(コリント第一6:19・20)。
聖霊の働き、聖霊の満たしを通して私たちはエルサレムの神殿以上に揺るがない存在とされている。
Ⅲ.神様を見上げる
神様は2つのことを命じておられる。「来て。見よ。」(8節)、「やめよ。知れ。」(10節)である。まず「来て」、「やめよ」と命じられている。神様は私たちの最初にとるべき行動として、神様の元に来ること、自分の手の働きを止めることを求めておられる。ベタニア村のマリアがイエス様の元に座って、イエス様の言葉を聞いていたことにつながる。この詩篇では恐るべきことが起ころうとしているが、あわてふためいて、いたずらに動き回る、自分の考えで行動するのではなく、神様の前で心静めて祈り、求める時間を持つことが第一であると言われている。
その上で、私たちが体験すべきことは神様を見ること、知ることを願われている。私たちは肉の目で神様を見ることはできない。イエス様は神様を見ることができたが、イエス様の生涯を記した福音書の中で、イエス様が神様のおられる天を見上げられたという箇所は一カ所だけである。ヨハネ17:1「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」。イエス様がゲッセマネの園に向かわれる直前の言葉、大祭司の祈りと呼ばれる箇所のみである。イエス様は最も大事な、厳粛な時に天の父なる神様を見上げられて残される弟子たちの祝福と守りを祈られた。イエス様は神様と一つであったが、神様から離れている私たちが神様を見よう、神様を知ろうと願うことは、神様を信じる私たちの最も尊い、最も必要な願いである。
私たちは世の中のさまざまな困難に恐れを覚える。揺り動かされない神様の平安に生きるものである。心が穏やかでない、恐れに捕らわれている時こそ、神様の前に出て祈り静まる。神様を見られなくとも、目を天に上げて神様にある確信をいただこう。
神様の豊かな命の川の水に浴している私たちの姿である。
