ビジョン2025「神への賛美にあふれ、聖霊によって励ましあい、主に愛に導く教会」(第2回) 

説 教 題:「信仰者の交わり」   井上義実師

聖書箇所:テサロニケ第一2:13~20

2:13 こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。
2:15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。
2:16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。
2:17 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

ビジョン2025を生み出す時に、教会運営企画室で開かれてきたのがテサロニケ人への手紙であった。ビジョン2025の霊的な基盤はこの手紙にある。テサロニケ人への手紙から第二回目となる。聖書のどの手紙もそうだが、著者のパウロはテサロニケ教会の信徒たちを思い浮かべ、愛情を込めてこの手紙を記している。テサロニケ教会との交わりがどのようなものだったのか今朝の聖書箇所から見ていこう。

 

Ⅰ.神のことばのつながり

パウロはテサロニケでは神のことばを神のことばとして受け入れたと言う(13節)。何を当たり前のことをと思う。しかし、テサロニケの前に訪れたピリピでは、神のことばを語ったパウロは町をかき乱した罪人とされて、むち打たれ牢屋に投げ込まれた(使徒16章)。テサロニケの後に訪れたアテネでは、神のことばを語ったパウロを人々はあざ笑い、イエス様を信じようとはしなかった(使徒17章)。ピリピでもアテネでも、また他の町でも、人々の多くは神のことばを神のことばとして受け止めなかった。テサロニケの人々は素直な、従順な、受け入れやすい心を持っていた。神のことばは神のことばと受け入れた者に恵みを持って働く。神のことばによって遠いユダヤの教会と、心を一つにしてつながっている(14節)。神のことばはどんなに離れていても信じる者たちを一つに結び合わせる。毎年9月23日は教区デーとしており、教区の働きをしている。今年は証し会として各教会から証し者が立てられた。性別、年令、立場、背景、経歴… 全て違うが共に主の愛と真実を喜び合える。神のことばは全てを越えて私たちを一つにすることができる力を持つ。

 

Ⅱ.神の命のつながり

テサロニケの人々とパウロたちは神のことばによってつながっている。また、何よりも神のことばには神の命が宿っている。神のことばによるつながりは、神の命によるつながりを持つ。私たちには血のつながる家族が与えられている。私たちの間には家族が多い人も、家族が少ない人も、お独りという方もある。教会は神の家族である(エペソ2:19)。パウロは少し前の箇所でテサロニケの人々に「自分の子どもに向かう父親のように」(2:11)と言い。「自分の子どもたちを養い育てる母親のように」(2:7)とも言い。「あなたがたの間で幼子になりました。」(2:7)とまで言っている。私たちが神の家族と言う時に、ただの言い回しのように軽く受け止めやすい気がする。パウロが父親のように、母親のように、幼子のようにと言う時に、この世の家族関係の中で家族を愛し、心配し、最善を願うように、神の家族もその思いは同じだと言っている。

教会にある兄弟姉妹のつながり、神の家族は、この世の命のつながりを越えた、神の命による家族関係である。私も多くの信仰者に教会で出会ってきた。勝手ながら、血のつながりがなくても、神様にあって私の祖父、私の祖母、私の父、私の母と思う人が何人もいる。血のつながる家族があることは感謝、たとえおられなくても、教会では信仰による祖父、祖母、父、母、兄弟姉妹にあてはまる方を持つことができる。また、自分より若い世代から信仰による私の父、母、祖父、祖母と思われるような、愛されるすばらしい信仰の先輩になっていただきたい。神の命のつながりはそのように広げられていく。

 

Ⅲ.妨げを超えるつながり

パウロはテサロニケ教会に限らず、「日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかい」(コリント第二11:28)があると言う。テサロニケ教会を覚え、行こうとしているが行けないでいる心の葛藤を記している「あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。」(17節)、「私パウロは何度も行こうとしました。」(18節)。パウロはサタンが妨げたと言っている。

聖霊はイエス様の救いによって神の家族とされ、それぞれの教会につながっている私たちを一つにし、信仰のつながりにある者たちを、教会を越えて一つにしている。サタンや悪の力は私たちを引き離そうと働くが、聖霊はそれにあがらう力を持ち私たちに働かれている。教会はエクレシアという言葉から来ているが、召し出されたもの、呼び集められたものという意味である。この世から一歩離れている。教会はコイノニアという言葉も使われる。交わりという意味である。この世から呼び集められたものが一つに交わる場所である。神様の御国は私たちの目では見えないが、悪が支配するようなこの地上において御国を表していく、知らせていく使命を私たちは帯びている。

 

神のことばは今も私たちの内に生きて働いている。神のことばは私たちを一つにする。神のことばの内にある神の命は私たちを神にある家族とする。地上にある見える教会につながれて神の国を表していく。この大きな働きの中に私たち一人一人は召し出されている。神様の御心は愛であることを覚えて、私たちも神様の愛に生きるものとして歩もう。

私たちの基となる「神への賛美にあふれ、聖霊によって励ましあい、主に愛に導く教会」につながっている。