聖書箇所:ヨハネ6:47~58
6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
本日は世界聖餐日礼拝を迎えた。私たちは普段から直接つながっている信仰者、教会、団体を思い浮かべることはできるが、全世界の信仰者、教会、団体を思い浮かべることは難しい。行ったことのない国、知らない教会の兄弟姉妹方を思い浮かべる気持ちで礼拝と聖餐式に与ろう。
Ⅰ.イエス様の慈しみの表れ
今日の箇所はイエス様が神様の働きを始められて早い時期の話になる。大勢の人々がイエス様の元に神様の話を聞くために、病気のものは癒しを、弱っているものは励ましを求めて集まってきていた。それは生き生きとした美しい光景だっただろう。この時、イエス様はガリラヤ湖のほとりの寂しい場所で話をされていた。人々は心も魂も満足していたが、空腹で疲れてしまっていた。一人の少年のお弁当だった5つのパン、2匹の魚をイエス様が祝福して分けられると、男性だけでも5千人以上いた人々が満腹になった。大きな奇跡が起こり、人々は興奮状態になったことだろう。イエス様をまつりあげて王とし、イスラエルに神様の栄光が表される国を建てようとした。この時、イエス様は弱っている人々を見て、愛と慈しみを表されたのであり、奇跡によって人気を得よう、地上の王国を造ろうなどとは全く思われていなかった。
Ⅱ.イエス様から離れていく人々
イエス様は何も答えられず静かに立ち去られて、弟子たちと舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡られた。人々はイエス様を探し求めて、湖の反対側にまでやってきた。人々の熱心さはすばらしいことだが、この時の会話を読んでも人々が考えているのはこの世のことでしかなかった。
彼らはモーセの時代、先祖たちが出エジプトの旅路で食べたマナのことを持ち出した。40年間、100万人を越えるイスラエルの民を養い続けられた大きな神様の恵みであった。マナが降ったのはこの期間だけであり、マナは失われ、その時代の人々もとうに死に絶えていた。神様のすばらしい大きな働きであっても過去のことに過ぎなかった。
イエス様はこの世のことがらに目を向けるのではなく、神様に目を向けることを示された。マナは天から降ったが肉体の命のための食物であった。イエス様ご自身が天から降った生けるパンであり、永遠の命を与える霊の食物であることを教えられた。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」(55節)と言われた。神様の真実を理解していたのなら、出エジプトのマナよりもイエス様が与えられる恵みがどれほど大きいかが分かったはずである。しかし、人々はこれを聞いて地上のこと、目に見えることとしか捉えられなかった。実際にイエス様の肉体を食べる、イエス様の血を飲むと考えてひどい話、聞くにたえない話だと言って立ち去っていってしまった。
Ⅲ.イエス様とつながる私たち
イエス様が語られたことは現実としてのこの世の話ではなく、神様とつながっている天上の話であり、信仰をもって受け止める話しである。イエス様は天上と地上をつなげるために、神様と私たちの間に立つために十字架にかかられる。ご自身の肉体は、打たれた釘と刺された槍によって裂かれ、命をささげられた。全ての傷口から血潮は流れ出した。イエス様がご自分の全てをかけられたのは、私たち全ての罪と汚れのあがない、代償とされたということである。イエス様の十字架の死が、私の罪を赦し、私に神の命を与え、神と共に生かしてくださることを信じ、受け入れること、このことがイエス様の肉体を食べる、イエス様の血を飲むことである。実際の体験ではなく、霊的な体験としていただいていくことをイエス様は語られている。
聖餐式はただの儀式ではない。ただの儀式であれば何と虚しいことだろうか。イエス様の肉体、イエス様の血を表している。どこまでもパンとブドウ汁であるが、単なる象徴ではなく、臨在の主が働いておられる。肉体の命がこの世の食物、飲み物によって保たれ、養われることができるように、神様の命は聖餐のパン、聖餐のブドウ汁によって保たれ、養われることができる。
私たちはみことばが語られている礼拝で、聖霊の働きに与りながら、聖餐式によって養われ続けていく。私たちの霊的な血となり、命となっていくことができる。
