聖 書:ヨハネ13章31~35節  

(31) さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。(32) 彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。(33) 子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。(34) わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(35) 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 イエスの裏切りからイエスが捕縛されるまでの短い間、ヨハネは14章から17章までを費やして、新しい戒め(愛の教え)や聖霊の啓示などについて語っておられます。本日のテキストにはその最初の教えとして「互に愛し合いなさい」ということが記されています。
Ⅰ.古い戒め
 イエスは「互に愛し合いなさい」と語る前に、「新しいいましめをあなたがたに与える」と言っておられます。 ところが「わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである」(Ⅰヨハネ2:7)とも言っておられるのです。
 ある時一人の律法学者がイエスに「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」(ルカ10:25)と尋ねました。イエスが反問されたところ、彼は「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」(ルカ10:27)と答えました。これは申命記6:5とレビ記19:18に記されている言葉です。つまりこの教えはイスラエルの人々が「初めから受けていた古い戒め」(Ⅰヨハネ 2:7)だったのです。
Ⅱ.新しい戒め
イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と言われました。どれほど素晴らしい教えであっても、それが実行不能なものであれば絵に描いた餅に過ぎません。イエスはそのご生涯を通して弟子たちを愛し通されました。その極致が洗足の模範です。またイエスは「わたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」(ヨハネ15:10)と言われました。私たちは「互に愛し合う」ことによって、神様の愛の中に居ることになると言うのです。何という素晴らしい恵みでありましょうか。これは単なる洗足という演技によるものではなく、十字架という贖いの恵みによるものであることは申すまでもないことです。この贖いを信じるという信仰によってだれもが神の愛を一身に受け、互いに愛し合う者とされるのです。
Ⅲ.互いに愛し合う 
聖書には「共に」とか「互いに」という言葉がよく出てきます。このことは人は一人では生きて行けない、相手を必要としていることを表しています。イエスは律法学者との問答の後に「良きサマリヤ人の譬」(ルカ10:30-37)を話され、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。隣人とは最も弱い者、虐げられている者、略奪されている者でありましょう。と同時に「互いに愛し合う」相手は、今あなたの一番近くにいる人、あなたの愛を必要としている人、そしてあなたもその人の愛を必要としている人でもあるのです。
大きな愛を表すことは難しいことです。ですからその言葉、その表現、一寸した思いやりを身近な人に表現して行こうではありませんか。