ビジョン2025②「聖霊による励まし」
聖書箇所:ヨハネ16:7~15
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
先週はビジョン2025の内容について最初の「神への賛美にあふれ」を詩篇147篇から語った。続いて「聖霊によって励ましあい」をヨハネ16章から話す。聖霊について話すならば聖書全巻から、神様にある歴史全体から語らなければならない。とても話し切れないことであり、イエス様と聖霊の関りから語るように導かれた。
Ⅰ.イエス様と聖霊
キリスト教の神様は父なる神様、子なるキリスト・イエス、聖霊なる神様の三位一体である。神様は三つの人格をお持ちだが「その本質において同一です。」(教団信仰告白)。イエス様と聖霊との関りを簡潔に見る。
1)イエス様は聖霊によってマリアに宿られた(ルカ1:35)。
2)ヨルダン川の洗礼の際に聖霊が降った(マタイ3:16他)。
3)聖霊はイエス様の働きの全てに共働された(ルカ10:21)
4)聖霊はイエス様の十字架の贖いを導かれた(へブル9:14)
5)聖霊はイエス様の復活の力となった(ローマ8:11)。
代表的なものを上げた。イエス様が聖霊によって励まされ、共に神様の働きを進められたのであれば、弱く小さな私たちにとって聖霊の働きがどれほど必要とされているだろうか。聖霊を求めるならば与えられると約束されている(ルカ11:13)「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」。私たちも神様に大胆に求めよう。
Ⅱ.イエス様が示された聖霊
ヨハネ14章から16章は、イエス様が最後の晩餐の席上で惜別の説教を語られた場面になる。イエス様は、聖霊が降るという約束を繰り返し、強く語られている。イエス様の十字架の死の後に残される弟子たちが弱く、頼りない存在であるかをイエス様はよく知っておられた。聖霊によって弟子たちが力をいただかない限り、狼の中に小羊を送り出すこととなることに間違いなかった。
1)助け主(7節)
イエス様が十字架の死を迎えられ、3日後に復活され、40日後に天に帰られる。その後に降る聖霊は、弟子たちを助けてくださる助け主である。助け主は、弁護者、援助者、とりなし手と訳される。訴える者との間に立って正しさを代弁する。訴える者とは誰なのか。「私たちの兄弟の告発者、昼も夜も私たちの神の前で訴える者」(黙示特12:10)と出てくる。その前の12:9から読むと悪魔、サタンと記されている。悪賢い悪魔に訴えられることは恐ろしい。イエス様は十字架で悪魔との戦いに勝利され、勝利を支えられた聖霊が私たちを支えてくださる。大いなる助け主がおられる。
2)真理の御霊(13節)
私たちは聖霊によって神様の真理に啓かれていく。そして、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)とある。自由は決して私たちの好き勝手な、我欲を満たすものではない。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」(ガラテヤ5:13)。愛は強いられるものではなく、自発的なものである。私たちは聖霊による自由を人への愛のために用いていくものである。
Ⅲ.イエス様の栄光を表わす聖霊(14節)
14節に聖霊はイエス様の栄光を現すとある。栄光とは勝利、祝福、成功とつながっているように思う。イエス様は度々、栄光と言う言葉を用いられている。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12:23)とある。この後に、一粒の麦について話され、地に落ちて死ねば豊かな実を結ぶと語られた。イエス様の栄光とは、ご自分が十字架に架かられ、全ての人の背き・罪の贖いの死であることを繰り返し語られている。
イエス様が十字架で現された栄光は、私たちの言う栄光とは正反対である。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)とある。天における大きな喜び、栄光は一人の罪人の悔い改めであると言う。イエス様の十字架の栄光は、人が神様に立ち返り、神様を信じ悔い改め、神の子とされるということにある。人の救いによって神様の栄光が現されるということは、驚くべきことである。このことを私たちはないがしろにすることはできない。
イエス様は聖霊と密な交わりを持たれながら、力と励ましをいただかれ、地上の働きを全うされていった。同じ聖霊が私たちにも働かれている。私たちも神様の栄光のために聖霊によって立ち上がっていこう。
