聖 書 エペソ2:1~10

(1) さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、(2) かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(3) また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。(4) しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、(5) 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――(6) キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。(7) それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。(8) あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(9) 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。(10) わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

そもそも大当たりと言うことばは予想とか抽選が非常によく的中したことを意味する。または非常に好運に合うとき使うことばである。今日は特別にこの単語を救いの恵みを説明する為に使いたいのである。特に日本で救われた人、信仰の一世の人にはピッタリの表現ではないかと思う。私たちは救われる確率が非常に低いところで救われたのである。アメリカと韓国のクリスチャンにはない大当たりの恵みがある。私たちの人生の中でイエス・キリストに出会った事だけで非常に大きな好運である。私たちが頂いた大当たりの具体的な内容は三つある。
1.身分が変わったこと
 身分というものは重要なものである。身分はその人の全てを表す。身分が変わると人生が変わる。国によっては自分の力で身分を変えられない国もある。身分を持っている限り、そこから収入を得る。名誉も、生きがいもある。良き仕事もある。身分を失うとこれらの全てを失う。ところで私たちの過去と現在の身分はなんだろう。
過去 1節:「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」、2節:「不従順の子ら」、3節:「生れながらの怒りの子」
現在 5、6節:「共に生かし、共によみがえらせ、共に天上で座に着く者」
 私たちが神様の子供として身分を持ち続けている限り、天の全ての祝福と恵みが来る。これこそ、私たちにとって大当たりではないか?全てを失っても神様の子供としての身分を失ってはいけない。
2.選ばれたこと
 3節の私たちの過去は他の人々と同じく生まれながらの怒りの子ある。ところで神様の大きな愛によって私たちだけ選ばれて、神様の子供に変わった。未だに日本の99.5%の人々は怒りの子供である。ところでなぜ私たちだけ救われたのか?なぜ私たちだけ神様の子供として選ばれたのか?日本の霊的な状況からみると私たちが先に選ばれた事はこれにまさる大当たりの恵みはない。誰もが選ばれるのではない。私たちは0.5%、或いはそれ以下の確率のところで選ばれた人々である。信仰の一世代ではその確率が実に極めて低い。
3.良き行い人に変わったこと
 人々は良き行いをして良き名前を歴史に残したいと思っている。しかし、自らの力では良き行いが出来ない。なぜなら人々はそもそも、3節のように「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行う」からである。ところでクリスチャンは良き行い人に変わった。10節に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」とある。私たちは既に一部分が変えられたし、これからも素晴らしい神様の作品として変えられて行く。クリスチャンだけの特権である。そのことで私たちの人生は大当たりである。
結論 大当たりの祝福をこれからの生活で表すのが私たちの役目である。多くの人々に見せることが使命である。神様は私たちを通して大当たりの祝福を未信者に見せたいのである。これから神様の祝福を見せながら証しを続けよう。私たちは神様によって立たされた証人である。自分がまず「大当たりの祝福された人」だという認識がないと立派な証人になれない。