<今日の聖句>
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
                                          (エペソ5:31)           聖 書 エペソ5:22~33

(22) 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。(23) キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。(24) そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。(25) 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。(26) キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、(27) また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。(28) それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。(29) 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。(30) わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。(31) 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。(32) この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。(33) いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

 昨日は、広島に原爆が投下された記念の日でした。毎年その日は平和についてのテレビ番組が放映され、世界の平和について考えさせられます。「平和をつくりだす人たちは、幸いである。」(マタイ5:9)わたしたちも、身近なできるところから、小さな所から平和を作り出すものでありたいです。そのことが世界平和につながるものだと思います。今朝は、人間関係の中で一番近い関係である夫婦について学んでいきましょう。 アダムの陥罪によってパラダイス(楽園)を失ってしまった人類に、神はなお二つの楽園を残しておられるとバックストン師は言われました。一つは主日礼拝、もう一つは家庭であるというのです。その家庭の核は夫婦です。その土台は妻の従順、夫の愛です。それはキリストと教会の強く美しい関係に学ぶ事です。
Ⅰ、妻たちよ
「キリストに対する恐れの心を持って、互いに仕え合うべきである」(21)と、パウロは相互服従を勧め、以下、その具体的内容として、夫婦、親子、主従の3つの人間関係について述べています。妻への勧めは、すべての分野において夫に従う事、仕える事、敬う事です。しかもその基準は高く主に仕えるようにです。男性と女性の優劣はなく平等ですが、創造の順序と秩序において、夫は頭(かしら)としてリード役を務めます。キリストが教会の頭であり、救い主であるように、夫は妻の頭です。それはキリストが正義と慈愛の頭であられたようにです。またキリストが教会の救い主であるようにとは、「救い主」はキリスト以外にいませんがそれにあやかって、夫は妻を守り、助け、支える頭であれということです。教会は、この命がけで愛して下さったキリストの愛に応えて、自発的な従順を持って、迫害の時にも、キリストの御名のために喜んで殉じてきました。「妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである」。人格対人格、心と心をもって、教会がキリストの恵に答えて従うように、妻も夫の愛と守りに答えて従うということです。人間的な努力ではできないことだと思います。聖霊様の助けも求め、従っていきましょう。
Ⅱ、夫たちよ 
今度は、夫たる者の責務について語ります。「夫たる者よ。キリストが教会を愛して、そのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」(25)。
①ささげる愛(25) 
 キリストの愛はご自身を犠牲にするささげる愛でした。愛は惜しみなく奪うのでなく、惜しみなくささげるものです。最終的には自分の命までもです。男性的、意志的な愛があります。つまり妻の絶対服従は、夫の絶対愛によってこそ、育まれるものとされたのです。この「愛しなさい」の原語はアガパオーで、自己中心の利己的愛でなく、愛する者の最上を願うもので、献身的、宗教的な愛を表すものです。しかもそれは、神の人類に対する愛、キリストの教会に対する愛に使われていたのと同じで、5:1、2、ローマ5:8につながるものです。
②きよめる愛(26,27) 
 キリストの教会への愛は献身的、犠牲的な愛でした。その目的は教会をきよめて聖なるものとするためでした。キリストがご自身をささげられたのは、教会を義として、ご自身の花嫁として迎えるためばかりでなく、その教会を聖化し、ますますご自身にふさわしいものとするためでした。パウロはこのことを踏まえ、夫も妻を得るばかりか、妻をきよめる者であれと言います。しみ、しわのない美しい花嫁姿とは、表面だけの美しさでなく、「聖く、傷のない者」という霊性の美です。外見、内心においても美しく清らかな花嫁、これがパウロの教会の理想像でした。そしてそれはキリストがして下さるのです。夫の妻への愛もきよめる愛であるべきです。
③養い、いたわる愛(28,29) 
 さらにキリストの愛はねんごろに養いいたわる愛です。養いいたわる愛とは、自分の体のように、いえ、自分の体として妻を愛する愛です。誰も自分の身を憎んだものはいません。おなかがすけば食べ、のどがかわけば飲み、暑ければ脱ぎ、寒ければ着、疲れれば休むのです。自分の体へのごく自然な養いといたわりの愛を持って、妻を愛しなさいというのです。日本人は気恥ずかしさもあってか、こうした細やかな妻へのいたわりが苦手です。キリストの教会への愛に習って妻への養い、いたわる愛を日々家庭において実践しましょう。
④一体の愛(30~32) 
 「父母を離れ・・ふたりは一体となるべきです。」この一体の主導権は夫がとるべきです。夫婦それぞれの仕事と役割の違いがある中にも、あらゆる事柄の中に夫婦生活の一体が求められます。この一体は合金的一体です。生い立ち、性格、趣味など違ったとしても、愛による一体です。まさに合金の妙です。一体の最高の実現は夫婦共同の一体の祈りにあります。 真の家庭の主人は神ご自身です。主にあるよき妻、よき夫の基準は聖書です。妻たち、夫たちの呼びかけに答えて主に喜ばれる家庭を築きましょう。家庭が崩れている今だからこそ、麗しい夫婦関係を通して生ける主を証ししていきましょう。