聖 書 ピリピ人への手紙3章13~21節
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
3:17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
3:18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
3:19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
金言
「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:21 )
今日の聖書箇所は今年のティーンズ・バイブル・キャンプと一緒です。キャンプのテーマは「栄光のゴールをめざして」、講師は荻窪栄光教会の井上先生です。ところで、わたしたちは洗礼を受けてクリスチャンになったらやっとゴールインなのではありません。そこは信仰のスタートラインです。そしてクリスチャンだけに与えられる神の賞与を目あてにイエスさまと共に走り出すのです。
1.目標を目ざしてひたすら走る
競技者は金メダルを目ざして競い合います。皆さん、岩崎恭子さんを覚えていますか。かつてバルセロナオリンピックで金メダルを取った最年少の競泳選手です。当時彼女はまだ14歳でした。また最近ではソチオリンピックで日本人最年長記録としてジャンプの葛西選手は41歳で銀メダルを取りました。
わたしたちの目標は人によって授与されるメダルではなく「神の賞与(栄冠)」(14)を目ざして信仰生活をひたすら走るのです。競技者にとって目標に集中するために大切なことは何ですか。それは「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばす」(13)ことです。人は過去にミスをした失敗の記憶にとらわれます。同様にクリスチャンは過去の罪の汚点がその人をみじめにさせます。この手紙を書いたパウロは過去に暗い記憶がありました。彼は最初のクリスチャンのステパノを石で撃ち殺した人たちの着物の番をしていたのです(使徒7:57~58)。しかしパウロはキリストにある希望によって、過去の罪に対する後悔を完全に消し去ります。わたしたちは過去の出来事をくよくよ思い悩むのではなく、代わり映えのしない今の自分にもがっかりしないで、わたしはキリストにあって新しくされたと信じるとき、前にある目標に向かって一歩一歩進むことができます。隣のクリスチャンと比較するのは愚かなことです。各自が「達し得たところに従って進むべき」(16)で無理をせずに信仰の量りにしたがって行えばよいのです。もし御霊に示されたらためらわずに従うことです。「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」(ヤコブ4:17)
2.信仰の手本に見ならう
パウロは自分にならってほしいと言いました。その意味はパウロがキリストに似た者になることだけに集中したように、わき目も振らずに目標から目をそらさないでいてほしいと願ったからです。あなたの周りには信仰のお手本として愛し敬うクリスチャンの友がいますか。目標を目ざして走るときは孤独なランナーにならないで、信仰の良き友がいれば励まし合い祈りあうことでお互いが前進します。
パウロは「十字架に敵対して」(18)いる者の最後は「滅び」となんだと考えると涙を流さずにはおられませんでした。パウロにとって滅びゆくユダヤ人たちは大きな悲しみであり心の痛手でした(ローマ9:2~3)。顧みてわたしたちは99%の救われていない日本人のために涙を流すほどに憂いてきたでしょうか。彼らの救いのために神が用いようとされるのは、既に救われているわたしたちなのです。
十字架を拒む人々の実像は創造主を神とは認めず、欲望が神であるかのように屈服し、恥ずべきものを誇りとし、思いは地上のことだけです(19)。これが真理から目を背けた人の恐ろしい姿です。
3.栄光のからだに変えられる
「しかし、わたしたちの国籍は天にある。」(20)。今年は墓園礼拝に出席しました。教会の墓石にはこの聖句が彫られています。教会の墓の中には骨は何体も安置されていますが、そこにいる方々の霊はみな天に帰られました。空の墓の前で復活されたイエス・キリストのことを伝えた御使いのように、「もうここにはおられない」のです。聖書には「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」(伝道の書12:7)とありますから、キリスト教とクリスチャンにとっては死は忌み嫌うものでもまた恐ろしいものでもありません。先週読んだ本に「死は天国への一区切り」という言葉にわが意を得たりと思いました。やがて自分が死んで天国に帰るとき、イエス・キリストや聖徒たちに会うことができると思うと、誤解を恐れずに言えば、わたしは死後を待ち遠しくさえ思えます。わたしたちはやがて救主、主イエスが再臨されるときを待ち望みます。それが救いの完成としての栄化のときだからです。神は聖書を通してわたしたちに約束をしています。「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(21)。栄化のからだ、それはキリストの復活したからだのように栄光に満ちたからだを授かるのです。復活は栄化の保証です。