聖 書 ルカによる福音書4章42~44節
4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。
4:43 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
4:44 そして、ユダヤの諸会堂で教を説かれた。

金  言 しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
(ヨハネ4:43)

イエスが宣教を始められる前に、バプテスマを受けられるとイエスに聖霊が下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。と天からの声が聞こえました。宣教を始められたのはイエスが三十歳の時でした。

1.福音を宣べ伝えるための準備
宣教に先立ってイエスが最初になさった準備は、父の御前で静まって祈ることでした。四十日断食し荒野のサタンの誘惑を受けたイエスは三回ともみことばを持って太刀打ちました。クリスチャンがだれかに福音を伝えようとするとき、サタンもあらゆる手段を使いそれを妨げようと躍起になって働いていると覚悟してください。サタンはクリスチャンの福音を伝える意志をくじき、ノン・クリスチャンに対して恐れを抱かせ、伝えようとする情熱を削ぎまたの機会にしようと怠惰にさせます。
今日の箇所で40節に「日が暮れると」人目を避けていた病人が次々とイエスのもとを訪れます。イエスは彼らをあわれんでひとりひとりに手を置いていやされます。夜が明けると休む間もなく「寂しい所」にひとりで退かれます。休むためではなく地上に来た神の子の本来の目的である宣教にこれから出ていくためには、是が非でも祈って備える必要がありました。「しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。」(ルカ5:16)
歴代志下20章でユダの王ヨシャパテはモアブ人とアンモン人が合流して攻めてくるという危機にあいます。ヨシャパテは神に向かって祈ります。われわれは攻めて来る大軍に当る力がなく、いかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです(12)。完全にお手上げでした。主はヨシャパテの祈りに答えられて、「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだ」(15)さらに「あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。」(17)と戦う前に勝利宣言をされます。祈りの応答に勇気を得たヨシャパテは人々に向かって、「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。」(20)と確約します。ユダの民が賛美しながら進軍すると、なんとモアブ人とアンモン人が同士討ちして滅ぼし合う結果となり大勝利になります。宣教は主の戦いです。そして、わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)と勝利を約束されています(Ⅰコリント15:58)。

2.福音を宣べ伝えるときの妨げ
サタンは人の欲や独りよがりの願いも巧みに宣教の妨げに使ってきます。「群衆が捜しまわって、…自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。」(42)とあります。イエスはどのような病でもたちどころにいやすことが出来ました。人は自分の利にかなうとみるとそばにいてほしいと願います。ところがすぐ前の4章でナザレの民衆はイエスに腹を立てると、「イエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。」(4:29)のです。わたしたちの自己中心な願いを満たすためにイエスがおられるのでなく、逆にわたしたちの常習化する罪の後ろめたさによってイエスを遠ざけたりしてはいけません。福音を伝えるチャンスを逸することがないように、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、」(Ⅱテモテ4:2)です。神の宣教を妨げるものは人の欲と不信仰です。

3.イエスの召命と重責を継承するわたしたち
イエスは人々の称賛や引き止める声に一切心を動かされません。イエスには父から授かった確かな召命と「神の国の福音を宣べ伝えねばならない」(42)に対する重い責任がありました。「他の町々にも」出かけて行きたいが、十字架にかかられるまで三年間の猶予しかありません。そのことは弟子たちも知らずご自身に秘めておられました。「自分はそのためにつかわされた」と言われたイエスは自分が世に遣わされた目的から片時も目をそらせることはありませんでした。
今日は年に三回行っている来週のオープンチャーチのためのチラシ配布です。「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」(伝道の書11:1)。わたしたちはこの町に住む人々が福音を知るためにいのちのパン(福音の種)を祈りながら労苦してまきます(11:6)。福音を宣べ伝えることは、イエスの救いに預かって現在のイエスの弟子を自任するわたしたちが、イエスから継承する使命と責任であり特権なのです。