聖 書:マタイによる福音書28章1~10節
28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

イースターおめでとうございます。イースター(復活祭)はクリスマス(降誕祭)と並ぶキリスト教の二大祝日です。キリスト信者は勿論のこと、それ以外の多くの人々によって世界的な行事として祝われています。仏教の開祖である釈迦、儒教の開祖である孔子や孟子、そのほか偉人や君子の生誕祭はその関係者によって記念として行われていますが、イースター(復活祭)はキリストに限ってのことです。そのことの意味を考えて見ることにいたします。

Ⅰ 偶然性に対する勝利
 私たちの人生には人それぞれに悩みや苦労があり、ほっとする間もないのが現実ではないでしょうか。一般に人生には「生、病、老、死」があると言われています。哲学者ヤスパースは、「死、苦悩、闘争、罪責」を「限界状況(人間を限界づけている普遍的な状況)」と呼びました。こうした事態は予告なしに偶然にやってきます。真の生きた信仰がなければ、偶然性に勝利することはできません。私たちは人生のすべての背後に天地万物を創造された神が存在していることを信じています。聖書は「わたしがあなたがたに対して抱いている計画は・・災いではなく平安を、希望を与えようとするもの」(エレミヤ29:11)と約束しています。私たちの人生は決して偶然ではなく、神の計画に基づいたものなのです。キリストの復活は偶然に起こった事ではなく、人類が堕落した当初から神が計画されていたことだったのです。キリスト者はこのように歴史を司る神を信じる信仰によって生かされているのです。

Ⅱ 罪に対する勝利
 聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)と教えています。聖書が「罪」という場合、「原罪と犯罪」の二つの意味があります。「原罪」とはアダムとエバが犯した罪で、「神への不従順、自己の欲望の追求、他人への責任転嫁」を意味しています。私たちすべての人類は原罪(罪の卵)をもって誕生しましたから、犯罪が生じるのは必然的なことです。人間は罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。原罪が原因で犯罪は結果なのです。罪には必ず刑罰が伴います。「罪の報酬は死」(ローマ6:23)なのです。キリストはすべての人類の罪の身代わりとなって十字架にかかって下さいました。キリストは十字架において「すべては終わった」(テテレスタイ)と叫ばれました。それは「負債は支払われた」と言う意味です。私たちの罪の代価はキリストの贖いの血によって支払われ、罪赦された者となりました。私たちはこの地上においては罪の誘惑から逃れることはできませんが、罪に対して勝利する力が与えられています。そして何よりも神を愛し、人を愛することを最大の生き甲斐として生きることができるのです。

Ⅲ 死に対する勝利
  ヤスパースは夫人がユダヤ人だったのでナチス政権によって収容所移送の恐怖に脅かされていました。ですから彼らにとっての「限界状況」は「死」だったのです。移送予定日があと数十日程度に迫った1945年3月30日に、アメリカ軍がハイデンベルクを占領したことで、収容所への移送を免れたのです。私たち、特に高齢者や病人は健康な人に比べれば死が差し迫っていることは確かです。若い人でも死に対する恐怖に脅かされる人はいます。いつ、だれが、どこで、どのような形で生涯を終えるかは誰も予測することはできません。しかし、幸いなことに今日は復活祭(イースター)です。聖書は「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と記しています。キリスト者にとっては死が終わりではありません。死を越えた先に栄光に満ちた「天の御国」が備えられているのです。そこに「神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている」(Ⅱコリント5:1)のです。私たちキリスト者はここに死を越えた先に永遠の希望があり、愛する人々との再会の喜びに満たされて生きているのです。

私たちの人生には様々な「限界状況」が立ちはだかっています。それを乗り越えることは容易なことではありません。しかし、復活されたキリストの中に真の解決を見出すことができます。世界を創造され、歴史を司る神を信じ、キリストの十字架の愛によって神を愛し、人を愛する者とされ、復活されたキリストによって御国を望む者とされていることを心から感謝いたしましょう。