聖 書:創世記 第50章15~21節
50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。
50:16 しかし神は悪しき者に言われる、「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、わたしの契約を口にするのか。
50:17 あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。
50:18 あなたは盗びとを見ればこれとむつみ、姦淫を行う者と交わる。
50:19 あなたはその口を悪にわたし、あなたの舌はたばかりを仕組む。
50:20 あなたは座してその兄弟をそしり、自分の母の子をののしる。
50:21 あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った。しかしわたしはあなたを責め、あなたの目の前にその罪をならべる。

 創世記から祝福の基ということを学んできた。神様は創世記12章でアブラハムを祝福の基に選ばれた。祝福は約束の子イサクに受け継がれ、さらにその子ヤコブに継承され、ヤコブから生まれた12人の男の子がイスラエル12部族の起源となる。四男ユダの子孫から、やがて救い主イエス生ま今日は創世記の最後の章から、ヤコブの11番目の子ヨセフからゆるしの心について学ぶヨセフの持っている気高さはイエス様の雛形である。

ヨセフはヤコブに他の兄弟に勝って寵愛を受ける。ところが兄弟から逆恨みされて、エジプトに連れて行かれ奴隷となる。しかしヨセフには「神が共におられたので」エジプトの王パロに次ぐ大臣にな時は流れイスラエルに起きた飢饉によって兄弟エジプトに食糧を買いに来て、ヨセフと劇的な再会を果たす。兄弟たちはヨセフが父ヤコブの死後、悪の仕返しをたくらむに違いないとヨセフを疑ってかかる。

1.さばきは主の御手に委ねる
 ヨセフの兄たちは、ヨセフが仕返しをするだろうから、父は遺言で「兄弟たちのとがと罪を赦すように」と言い残したと持ち掛ける。それが事実造り話わからないが、ヨセフはこの言葉を聞いて泣いた(17)とある。ヨセフは兄たちを心から赦しているにのに、自分が理解されていないための悲しみの涙なのか。仕打ちにおびえる兄たちにヨセフは「わたしが神に代ることができましょうか。(19)と反語で問う。このヨセフの姿はイエス様の教えの通りである。(ルカ6:37/94p)そこからパウロも語る。『自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。』(ローマ12:19さばきは主の御手にお任せする。

2.摂理の神を信じる信仰
 さらにヨセフは「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(20)これこそ神様の摂理を信じるヨセフの信仰だ。摂理信仰を新約では有名なあの聖句に置き換えられる。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)人間は自分に悪いことや不都合なことが起きると神様のせいにしたくなる。だが神様は人間を懲らしめるために、罰やたたりを与える方では決してない。パウロもピリピ書で証しをしている。彼は自分が投獄されたことさえも、否定的に取らずにむしろ福音の前進に役に立ったと証ししている。

3.ゆるして、さらに愛すること
 ヨセフは一番目に自分で報復しないで、すべてをご存知の神様の御手にすべてをお任せしている。二番目にヨセフは自分の人生に起こったこと喜べることだけでなく、辛く悲しい不条理な出来事さえもすべてをありのままに受け入れて、神様が将来必ず益に変えてくださると信じたことだ。こうしてヨセフは信仰によって他の人の悪を赦した。それだけではなく、さらに相手を愛した。悪を図った兄弟たちとその子どもたちをエジプトに呼び寄せて彼ら一族を養った。(21)ゆるすことが通常の関係の回復だとすれば、敵対関係にあった人を愛することは、さらに積極的に相手の善を願うことだ。イエス様は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)と言われました。主の十字架と復活を信じて救われることで、わたしたちは神様と和解しました。神様と和解した者は人の罪や悪に対して報復せず、過去の悪にとらわれずにゆるして、やがてその人を愛し受け入れるように変えられたい。