聖書:コロサイ3章1~4節
3:1このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

荻窪と船橋の教会では11月の第一日曜日を召天者記念礼拝に定めている。これはもともとカトリックの「オールソウルズ―万霊節」に由来する。
『1世紀末以降多くの殉教者が起こった。各教会ごとに聖徒を記念して死んだ日にその人の名を付けて礼拝をしていた。5世紀以降、聖徒たちの記念日がまとめられ、1年中のすべての日に「聖○○の日」と名付けられるようになった。(中でも有名な)2/14は聖ヴァレンタインの日だ。9世紀頃、そこで全部をまとめて11/1を「諸聖徒の日(オールセインツ)」と呼び、歴史に名を残さずとも、信仰を持って死んでいったすべての信徒たちを記念するために、11/2を「オールソウルズ-万霊節」と呼ぶようになった。日基教団は11月の第一日曜日を「聖徒の日」と定めている。』 (日基教団HP抜粋)私たちの教会では召天者の写真を飾り記念の礼拝を持つ。

1.上にあるものを求める 3:1.2
まず1節にあるように、クリスチャンは「上にあるもの」に目を向けて、「上にあるもの」を求めて生きていかなければならない。何を食べようかと案じ病気になれば健康も気にかかる。けれどそれら地上のことだけに終始してしまうのでなく、救いによって与えられた永遠のいのちにふさわしく地上の日々をより高みを目指して生きたい。2節に「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」は単なる倫理道徳のレベルで言うのではない。神の子どもとされた身分と「わたしたちの国籍は天にある。」(ピリ3:20)にあることに誇りをもって、教会のかしらなるキリストを仰ぎ、からだなるクリスチャンはイエス様に直結しなくてはならない。
私たちは「先には罪の中にあり、…死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。」(2:13)私たちはキリストと共に死んで、キリストと共によみがえらされた。有名な「我キリスト共に十字架につけられたり」(ガラ2:20文語訳)である。十字架よって救われた後も私たちを悩ませ続ける自我、十字架で古き己も共に死んだのだ。クリスチャンの生涯は「死ななければ生きない」ということだ。我欲のとりこにされないために上にあるものを求めよう。

2.キリストと共に隠されたいのち 3:3
「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(3)死は一回きりのことであって私たちは「すでに」罪に死んだものだ。そして救いによって新しいいのちを得ている。クリスチャンは救われて自覚的に「きよめ」を経験するが、その一回きりで「きよめ」は完成するのでなく、第二の転機としてそれを通った後も、私たちはイエス様の十字架を仰いでは、悔い改めて何度でも自分に死ぬことで聖化され続けなければならない。そういうわけで「いまだ」古い時代は去っておらず、クリスチャンは地上の生涯を終えて死ぬまで(再臨によって主が再び来られるときまで)、新しいいのちは目には見えない神のうちに隠された真理なのである。

3.栄光のうちに現れるいのち 3:4
しかしいよいよ私たちが「神のうちに隠されている」時が終わりを告げ、本来ある姿が明らかになる時が来る。「わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。」(4)これはイエス様が空中再臨されるとき(Ⅰテサ4:16~17)、始めに私たちよりも先に天に行ったものは墓からよみがえらされて、隠されているいのち(3)は彼らと合体して、栄光の体に変えられる。次に私たちがそのときまで生き残っているならば、空中で主とお出会いして(携挙)、死を経ないで栄光の体に変えられる。クリスチャンにはこのようにすばらしい未来が約束されている。聖書は私たちの永遠に関して明確に啓示されている書物だ。地上のことにだけ翻弄されないで、時には天を思いそこに慰めとやすらぎを得よう。