「光であるキリスト」
聖 書:ヨハネ1章1節~13節

(1) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(2) この言は初めに神と共にあった。(3) すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(4) この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。(5) 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(6) ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。(7) この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。(8) 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。(9) すべての人を照すまことの光があって、世にきた。(10) 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。(11) 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(12) しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(13) それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

 急速に変化する世の中に大きな戸惑いを覚える昨今である。広島や栃木における児童殺害事件の犠牲者や家族のことを思うと言う言葉もない。また耐震強度偽装問題には、人間の良心に対する一縷の望みさえも奪われてしまう寂しさと悲しみを覚える。「これまで性善説に立ってきたが、今後は性悪説も考えざるを得ない」とテレビで語っていたコメンテーターの言葉が印象的であった。
 聖書は創世記において、最初の家族の中で殺人が行われたことを記している。また「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は罪を犯した」(ローマ3:10,23)と人間の実情を示している。時代はますますその暗闇の度合いを増し加えている。そこには何らの希望も見出すことはできない。

Ⅰ.この世の光である(1~5)

 光にはいろいろな性質があるが、まず考えられることは光明であり、希望である。光と闇は同居することが出来ない。光の力が強ければ暗闇は放逐される。逆に暗闇の力が強ければ光はその力を失ってしまう。耐震強度偽装事件で責任をなすり合っている建築主、設計士、建設会社、検査機関には僅かの光も見出すことは出来ない。
 聖書は「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。・・・そして、やみはこれに勝たなかった」
(4,5)、「わたしは世の光である。」(ヨハネ8:12)、と語っている。ここに希望がある。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく」(同12)とある。世の光に照らされて、明るい人生を歩む者でありたい。
Ⅱ.まことの光である(9~11)
 光の性質として次に考えられるのは真実であり、清さである。暗闇の世界は偽りの世界である。真っ暗闇では真偽を見極めることが困難である。そこに目をつけて偽物、贋作が横行するのである。本当の偽物は限りなく本物に近づいてくるのである。政治の世界、教育の世界、権力の世界、芸術の世界、それに最も神聖なる宗教の世界でさえも決して例外ではない。この世の中、どこに真理があり、本物が存在するのであろうか。
 キリストは「すべてを照らすまことの光」(ヨハネ1:9)である。レーザー光線には病める部位を除去し、癒
す力がある。まことの光に照らされて、真実な人生を歩む者でありたい。
Ⅲ.命の光である(12~13)
 光の性質として更に考えられるのは命であり、動力である。太陽光線は大きなエネルギーをもたらす。それは電力となってこの世界を動かしている。「命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)とある。キリストを信じる者には「神の子となる力」(ヨハネ1:12)が与えられる。それは血筋、肉の欲、人の欲によるのではなく、ただ神によってなされる。キリスト者にはこのような命が与えられるので、悪魔の誘惑に打ち勝つ力強い人生を送ることが出来るのである。命の光に照らされて、力強い人生を歩む者でありたい。
 
 世の光、まことの光、命の光に照らされて、明るく、真実で、力強い人生を歩む者とさせて頂きましょう。