聖 書 使徒信条

我は天地の造り主全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

 使徒信条は、その名の通り12使徒に由来するのですが、その証拠付けとなる資料はまだ発見されていません。ただ使徒(イエスの召しに応じてイエスと生活を共にし、訓練を受け、宣教と癒しの業をなし、イエスの復活後、教会の宣教と教育と管理の指導者として働いた事が、新約聖書のしるす所)以来の信仰と伝統に生きる、教会の福音理解を表わしているものです。2世紀後半にローマで用いられた洗礼のための信仰告白『ローマ信条』がその原型です。洗礼に於ける信仰の告白を明確な言葉で言い表わす為に、教会の中に、定められた信仰告白の文章が必要とされました。さらに、異端を排しつつ正統信仰を明確にしていく為に、長い年月をかけて形成されてきました。使徒信条という名は4世紀頃から用いられているそうです。使徒信条は、東方教会(ギリシャ正教、ロシア正教)を除く全キリスト教会で広く用いられています。
1.三位一体の神
(創1:26、マタイ28:19、ルカ3:21,22、ヨハネ10:30、38、15:26)を告白しています
「三位一体」:主イエス・キリストによって啓示され、聖書の中に証された、父、子、聖霊なる三位一体の神は、その本質及び完全に置いて全く同一である。
「父なる神」:全知全能、永遠不変、聖にして在さざる所なく、天地の創造者、また主宰者であって至善至愛の父なる神である。
「子なる神」:主イエス・キリストは父なる神の独り子であって聖霊によってはらんだ処女マリヤにより生まれ、我らを罪より贖うために、十字架に釘づけられ、死んで葬られ、三日目に甦り、天に昇り、父なる神の右に座し、生ける者と死にたる者とを裁くために再び来たりたもう救い主なる神である。
「聖霊なる神」:父と子と共に拝まれ崇められる第三位の神、我らと共に、又中にいまして、子なる神とそのみ業とを啓示して、我らの中に、救贖を実現される助け主なる神である。(日本イエス・キリスト教団教憲より)
使徒信条では、父なる神とわたしたちの創造、御子なる神とわたしたちの贖い、聖霊なる神と私たちの聖化、三つの部分から成り立っています。三位一体の神を告白することがキリスト教にとっていかに大切であるかを表わしています。異端との区別もこれによってわかります。
唯一の神は、私達を救うために、父、子、聖霊として身を現し、その聖なる交わりとそれぞれの固有な働きをもって、わたしたちの救いを達成しておられる事を知る事が大切です。使徒信条は、この教理に私達を導くものです。
2.全能なる神を信ず
信じる対象はどのようなお方なのでしょうか。
神は、天地の造り主です。この天地宇宙をお造りになられ、私たち人間も造られたお方です。神は創造者、私たちは被造物です。神はすべての主権を持っておられる絶対者、聖なる超越者です。人間とは明確に区別された存在です。しかし同時に神はわたしたちに父であられます。慈愛に満ちた恵み深いお方です。この混沌とした不安な時代の中にあっても、私たちはこの神様に愛され、生かされ、信頼しより頼んで歩む事ができるとはなんという恵みでしょうか。これは私たちに生活の秩序を与え、逆境の中では忍耐を、順境では感謝を、将来については神への信頼に生きるように導きます。
神はご自身とその救いを明らかにしてくださいますから、信仰は神の賜物です。しかし同時に信仰は私たち信じる者の決断でもあります。私たちは唯一の神を信じるか、偶像の神を選ぶのか決断しなければなりません。信仰は、神の赦しと裁きを身を低くして受け入れ、それにふさわしく生活する事です。信仰は信頼です。そのために神について真剣に学び理解することによって身につける信頼です。信仰は告白です。礼拝、そして私たちの生活の中で信仰を公に明らかにしていきましょう。又、救いの証をもっとしていきましょう。これが伝道です。(横浜使路教会『使徒信条(解説)』、いのちのことば社、『新キリスト教辞典』参考)