聖 書:ヨハネ14章1節~6節  

(1) 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(2) わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。(3) そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(4) わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。(5) トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。(6) イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

 私たちの日常生活に欠くことのでないものに道があります。今日、この礼拝に来られた方の中で、交通手段はとにかくとして、まったく道を通らずに来られた方があるでしょうか。しかし、そうした道の他に、宗教的、また倫理、道徳的な道もあります。身近に神道や道教、また儒教のようなものもあります。論語には、「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」といった誰もが知っている名言もあります。仏教でも原始経典には釈迦の説いた道ということばが数多く出てきます。多くの、この世の宗教は、それぞれが理想とする、道を指し示していると言ってもよいでしょう。ところで、人に道を教える一番よい方法を知っておられますか。そう、相手が行きたいと言っている目的地まで一緒に行ってあげることではないでしょうか。主イエス・キリストは正に、そのようにしてくださる唯一のお方です。主は、ただ道を指さすのでなく、わたしを通ってゆきなさいといわれるのです。
I. <私は道であり・・。>
 ここで主イエスは、ご自分が多くある道の一つであると言っておられるのではありません。日本語で不便な点は、定冠詞がないことだと思います。しかし、英訳聖書にも、原典聖書のギリシャ語にも、道の前に定冠詞がついているのです。英語であれば、THE がついているのです。そう、主イエスは、わたしこそ、究極の道であると宣言しておられるのです。私たち日本人は、おびただしい数の宗教に取り囲まれ、個人であれ、多くの宗教の影響を受けています。これは、一見、寛容でよいように見えますが、これほど適当で、確信のない信仰態度はありません。決して、おつき合い程度の信仰では、あなたを救うことはできないのです。ある浄土真宗の高僧は、曖昧な自分の信仰から大胆にも、キリストの福音を信じてクリスチャン、牧師にまでなられました。彼はこう言っています。「愛する同胞日本人よ、仏教の極楽の前に逡巡するなかれ。キリストの十字架の道を通って天国に来たれ!」
Ⅱ.<真理であり・・。> 
真理には多くの真理があるでしょう。しかし、救いの真理はただ一つ、主キリスト・イエスの福音の真理以外にありません。仏教には悟りの境地はあっても、創造主との和解を得させる救いはないのです。
Ⅲ.<生命である・・。> 
道なるキリストを辿り行くなら、その第一歩から、あなたは永遠の生命の序章を歩みはじめておられるのです。主が申される<わたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない>とは正に、そのことを示しておられるのです。
 今こそ、確かなキリストの道を歩み始めましょう。希望と確信をもって!