聖 書:ヨシュア記1章1節~9節  

(1) 主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、(2) 「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。(3) あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。(4) あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。(5) あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。(6) 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。(7) ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。(8) この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。(9) わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。 

 基督教の経典を日本では「聖書」、中国は「聖経」、韓国では二つを合わせて「聖経全書」、それを省略して「聖経」と呼んでいる。日本の教会が「聖書」と呼んだのは仏教の経典を「聖経」と呼んでいたので、それと区別するために「聖書」と呼んだのではないかと言う説がある。「聖書」、「聖経」は一般宗教の経典を示す普通名詞である。基督教の経典の独特の名前は、「聖書、聖経」よりは「契約書」、もっと具体的には「旧約」と「新約」である。この名前は基督教の信仰の一面を明確にする名前だ。古典としての経典ではなくて契約書としての経典である。新旧約の聖書が私達に意味ある理由はそれが、最古の古典、最古の哲学ではなくて、神と私を結ぶ契約書だからである。私達が新旧約の聖書を古典ではなくて神様の呼びかけとそれに相応しい人の応答として読まなければならない理由がここにある。(大韓聖経公会より)
 今日の箇所でヨシュアは神様の約束のみことばに全てをかけた。ある意味ではみことばに全てをかけざるを得なかった。
1.忙しい日々
 ヨシュア1章で彼は一日が24時間では足りないほど忙しい日々を過ごしていた。朝起きると人々が色んな事を彼に報告した。その場で適切な指示をしなければならなかった。大勢の人々が彼の答えを待っていた。彼の指示なしに何も始まらなかった。時間を取って考える暇もなかった。その場、その場で結論を出さなければならなかった。だから彼は一時もみことばを手放せない生活であった。一日中神様の知恵を求めなければならなかった。判断を間違ってしまうとイスラエルの民が被害を受ける。全てが彼の責任になった。だから彼は毎日、みことばを読んで神の知恵を得た。私達はヨシュアほどではないが、毎日忙しい日々を過ごしている。みことばがないままの忙しい生活は生きる目的を失わせることになる。忙しいときこそ、仕事が多いときこそ、神様の知恵のみことばが必要である。
2.不安定の日々 
 神様はヨシュアに3回も連続して「強く、雄々しくあれ」とお命じになった。彼には誰よりも熱い信仰があって、勇気もあったのに。そのヨシュアに神様は1章で「強くあれ、雄々しくあれ」を連発していらっしゃる。彼の心に変化があったのか?或いは、神様が念のために連発しているだけなのか?それは分からないが、彼を取り巻く環境は非常に不安定な状態であることは確かだ。全てが不安定の日々の中で彼は余儀なく聖書を読まなければならなかった。人は聖書を読むとき心の平安を得る。ヨシュアは勇気ある人であったが、いくら勇気ある人であれ、明日を知らないのが人の心である。昨日までバアル預言者450人と戦ったエリヤは次の日に臆病な人になって荒野に逃げた。ヨシュアは心が少しでも不安になると「強く、雄々しくあれ」を覚え続けた。不安の心は聖書を読ませる良き働きをする。心が不安の時、聖書を読むと神様の平安を得られる。
 ヨシュアはみことばに全てをかけた人だった。そのみことばを信じて、全てを行った。彼の人生は神様が約束された通りになった。私達もヨシュアのような人生を歩みたい。