聖 書:ヨシュア1章1節~13節 

(1)主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、(2) 「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。(3) あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。(4) あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。(5) あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。(6) 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。(7) ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。(8) この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。(9) わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。(10) そこでヨシュアは民のつかさたちに命じて言った、(11) 「宿営のなかを巡って民に命じて言いなさい、『糧食の備えをしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダンを渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて獲させようとされる地を獲るために、進み行かなければならないからである』」。(12) ヨシュアはまたルベンびと、ガドびと、およびマナセの半部族に言った、(13) 「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。    

 いのちのことば社創立60周年記念並びに新社屋移転記念「宣教フェスティバル」が中野ゼロホールで行われました。主題は「原点からの出発(旅立ち)」でした。私たちも創立50周年を終えて、いよいよ新しい未来に向かって出発する時となりました。
 ヨシュアはこれまでモーセに従ってきましたが、残念ながらモーセは約束の地を目前にして死にました。その後の責任はヨシュアの双肩にかかってきます。その時に「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい」(2)という御言葉が与えられたのです。
Ⅰ.過去との別離
 宣教フェスティバルでは、出発を旅立ちと読ませていました。旅立ちと言えば、山口百恵さんの「いい日旅立ち」を思い出します。この間アカデミー賞に「おくりびと」が選ばれました。この英語名は「旅立ち」で、この世からあの世への旅立ちを描いたものです。つまり出発とはある地点からある目標に向かって旅立つことなのです。ヨシュアの原点はモーセの死でした。ここにモーセとの別離、モーセにまつわる一切合切から別れて、自立に向かうのです。アブラハムの場合も父テラの死が原点となりました。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)という御言葉を頂いて、出発したのです。別れは誰にとっても辛いものであり、悲しいものです。勇気を出して一歩踏み出しましょう。
Ⅱ.未知との遭遇
 ヨシュアの責任はイスラエル民族を約束の地に入国させることでした。屈強な原住民の住むカナンに入ることは容易ではありません。前にはヨルダン川が横たわっています。イスラエル民族はこのためにエジプトを出たのであり、40年の荒野における生活にも耐えてきたのです。主は「あなたがたが足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与える」(3)と再確認して下さいます。ここに明快なビジョンが与えられています。私たちの真の原点は、キリストの十字架と復活、そして大宣教命令にあります。どのような未来を神は私たちに用意しておられるのでしょうか。大きな期待に胸が膨らみます。
Ⅲ.臨在の約束
主はヨシュアに対して「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」(5)と約束しておられます。これほど強い味方は他にはありません。臨在される主の大きな励ましによって、私たちは所期の目的に、まっしぐらに向かっていくことが出来るのです。
 個人的にも、教会的にも、教団的にも、超教派的にも、主による勝利を確信して、不信仰に陥ることなく、互いに助け合い、励まし合いながら、信仰の旅路を走り抜かせて頂きましょう。