聖 書:歴代志上16:8~36

(8)主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民の中に知らせよ。
(9)主にむかって歌え、主をほめ歌え。そのもろもろのくすしきみわざを語れ。
(10)その聖なるみ名を誇れ。どうか主を求める者の心が喜ぶように。
(11)主とそのみ力とを求めよ。つねにそのみ顔をたずねよ。
(12)そのしもべアブラハムのすえよ、その選ばれたヤコブの子らよ。主のなされたくすしきみわざと、その奇跡と、そのみ口のさばきとを心にとめよ。
(13)彼はわれわれの神、主にいます。そのさばきは全地にある。
(14)主はとこしえにその契約をみこころにとめられる。これはよろずよに命じられたみ言葉であって、
(15)アブラハムと結ばれた契約、イサクに誓われた約束である。
(16)主はこれを堅く立ててヤコブのために定めとし、イスラエルのためにとこしえの契約として、
(17)言われた、「あなたにカナンの地を与えて、あなたがたの受ける嗣業の分け前とする」と。
(18)その時、彼らの数は少なくて、数えるに足らず、かの国で旅びととなり、
(19)国から国へ行き、この国からほかの民へ行った。
(20)主は人の彼らをしえたげるのをゆるされず、彼らのために王たちを懲らしめて、
(21)言われた、「わが油そそがれた者たちにさわってはならない。わが預言者たちに害を加えてはならない」と。
(22)全地よ、主に向かって歌え。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
(23)もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にくすしきみわざをあらわせ。
(24)主は大いなるかたにいまして、いとほめたたうべき者、もろもろの神にまさって、恐るべき者だからである。
(25)もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主は天を造られた。
(26)誉と威厳とはそのみ前にあり、力と喜びとはその聖所にある。
(27)もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
(28)そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主のみ前にきたれ。聖なる装いをして主を拝め。
(29)全地よ、そのみ前におののけ。世界は堅く立って、動かされることはない。
(30)天は喜び、地はたのしみ、もろもろの国民の中に言え、「主は王であられる」と。
(31)海とその中に満つるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は喜べ。
(32)そのとき林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌う。主は地をさばくためにこられるからである。
(33)主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
(34)また言え、「われわれの救の神よ、われわれを救い、もろもろの国民の中からわれわれを集めてお救いください。そうすればあなたの聖なるみ名に感謝し、あなたの誉を誇るでしょう。
(35)イスラエルの神、主は、とこしえからとこしえまでほむべきかな」と。その時すべての民は「アァメン」と言って主をほめたたえた。
(36)ダビデはアサフとその兄弟たちを主の契約の箱の前にとめおいて、常に箱の前に仕え、日々のわざを行わせた。

 

前回までモーセの礼拝を見た。今朝は次にダビデの礼拝を見ていく。信仰篤かったダビデの生涯は礼拝の生涯であっただろう。

Ⅰ.ダビデの敬虔さ
この箇所は神の箱がエルサレムに到着した、感謝と喜びの時である。イスラエルの初代サウル王と2代目ダビデ王との違いは多くあろうが、最も大きな違いは神様の前の敬虔さではないか。サウルは神の箱が顧みられていなくても構いはしなかったようだが、ダビデは王国が固まった時に最初の働きとして神の箱をエルサレムにかき上ろうとした。サウルは祭司以外許されない犠牲をささげ、神様の御心を満たすことができなかった。結果として王としての自分の召しを軽んじた。サウルも豊かな賜物を持ち、大きな可能性を秘めていた。しかし、高慢さが芽生えたのであろうか、余りに愚かであった。ダビデも大きな失敗はあったが、神様に寄り頼み、神様を第一に行動した。ダビデの信仰を神様はよみせられ、祝福を備えられた。

Ⅱ.ダビデの賛美
神の箱がエルサレムに到着した時ダビデは舞い踊ったが、その喜びと賛美の礼拝を今日の詩の箇所から見る。ダビデは詩篇150篇中の約半数73篇を詠んだ。8~36節に残された詩篇は、詩篇105篇、96篇、106篇の各部分にも同じ言葉が見られる。この詩を内容から3つに区分する。
①8~11節:【感謝】主のみ名、みわざ、み力に感謝する。
②12~22節:【真実】主は契約、約束を全うされる真実なお方である。
③23~36節:【栄光】天地を創造された唯一の主に栄光が帰される。主は人を救うお方である。被造物は全て主をほめたたえる。

Ⅲ.ダビデの願い
ダビデは無事に神の箱をエルサレムに安置した。その後、自分が香柏の家に住んでいるのに、神の箱が幕屋にあるので、主のために神殿を建築しようとした。ダビデはエルサレムに神の箱を運び込んで良しとしたのではない。さらに良きことを求めようとした。ダビデは神殿建築に直接携わることはできず、次代の息子ソロモンに引き継がれていった。ダビデの礼拝は神様への良き願いに導くものであった。神様の業はすぐになされることもあれば、時を越え、人を越えてなされていくものでもある。

ダビデの信仰が良き礼拝をささげさせ、礼拝が良き信仰を引上げていく。信仰と礼拝が互いに相まっていく正の循環がここにある。私たちの礼拝もそのように天に引き上げられていくものとしてささげよう。