聖 書 ローマ12章1~2節
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
金 言
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」 (ローマ12:1)
荻窪では2015年度の指針である=神の愛に応える-礼拝・祈祷-から、礼拝をテーマに連続で語っている。教会は日曜日に礼拝のために集まることは一般にも良く知られている。礼拝はエルサレムの初代教会から今日まで続けられてきた。これからも主イエス様が再び来られる日まで守られ続けていく。礼拝は教会の基本線であり、生命線である。礼拝なしに教会は存在しない。礼拝を短く言うならば、ご自分を現される啓示の神様と教会に集まる神様の民が公に会見(会い見える)することである。群れ全体が集まることに意味があり、これはエクレシア「集められた共同体」である。「民は皆ひとりのようになって」(ネヘミヤ8:1)と聖書は記す、公にということが普遍的な、公同ということにつながる。礼拝とは何かを大きく見ていこう。
1.神様の聖なる臨在が表わされている
旧約の初めからノアやアブラハムが祭壇でささげものを献げ礼拝している。公の礼拝はモーセが十戒を授与される場面で民が集まり神様の臨在に触れた所から始まる。大きく荒野の時代は会見の幕屋での礼拝、イスラエル王国時代となってエルサレム神殿での礼拝、バビロン捕囚後は各地の会堂での礼拝となる。イエス様が宣教に立たれて神の国が到来した。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とイエス様が言われたように信じる者の只中に神様は臨在される。イエス様によって礼拝も一新された。私たちの礼拝もイエス様の臨在というイエス様ご自身の存在につながっている。
2.神様が御言を語られる
神様は観念的な無言の存在ではない、私たちに語りかけられるお方である。ロゴスと言う言葉には深い意味があるが、ヨハネ1:1に「言は神であった。」とある。旧約時代には預言者や詩人が神様の言葉を語っている。新約時代にはイエス様ご自身が神様の言葉を語り、使徒や信徒たちも示されて神様の言葉を語っている。イエス様こそは語られる言葉を越えた、生ける神の言葉であった。聖書は新しくても2千年近く前に記されている。現代と言う時代に、目の前の会衆に神の言葉を通訳するのが講壇で語られる御言である(Ⅰテサロニケ2:13)。
3.神様が教会を形造られる
礼拝には普段それぞれに異なった生活をしている信徒が集合する。「教会は集合することによって神を礼拝し、交わりを深める。また分散することによって信徒各自に与えられた使命を遂行し、社会に奉仕する。」-由木康師。礼拝に共に集まり、神様に養われる。礼拝は御言によって信仰者の心を呼び覚ます。賛美や祈りによって心を引上げる。信仰告白によって一つに結び合わされる。聖礼典によって養われる。疲れ、傷つき、気力を失ったものが、生かされ、癒され、活力が与えられていく。新しい思いをいただいて世に出でていく。Ⅰコリント14:26「徳を高める」オイコドメーは建設する、育成するという意味である。教会は集まることによって自らを育成していく。
4.神様に栄光が帰される
ウエストミンスター教理問答の問1:人間のおもな、最高の目的は、何であるか。答:人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(1)、永遠に神を喜ぶことである(2)。人間は神様の創造の冠でありながら、罪に沈んでしまい、滅びる者となった。神様は回復の道を備えてくださった。イエス様の十字架の死によって、贖われ救われる道が開かれた。新しい生きた道によって人間は本来の姿に立ち帰ることができる。神様と一つに結び合わされ、罪と汚れにある者が聖なる神様を礼拝し、死ぬべき者が永遠である神様を崇めることができる。ヨハネ黙示録での天上の礼拝(ヨハネ黙示録5・7章参照)にはあがなわれた者全ての神様に栄光を帰する礼拝が出てくる。最終的な完成形がここにあるが、私たちが地上で行う礼拝も神様に栄光を帰する。
礼拝はこの世にあって天とつながっている。礼拝によって私たちは整えられ、力をいただき世に遣わされていく。私たちの生活、信仰の中心に礼拝がある。私たちは天国に迎えられるまで週毎の巡礼者である。