聖 書:ヤコブ1:2~8

(2)わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
(3)あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
(4)だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
(5)あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
(6)ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
(7)そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
(8)そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

2015年度も残り1月となった。教会主題は「礼拝」と「祈祷」である。礼拝について語ってきた。残りわずかであるが、祈りを主題に取り上げる。霊の食物は御言である。霊の運動は証し・伝道である。霊の呼吸が祈りである。呼吸は健康であれば意識しない。祈りも自然に行うものである。私たちの日々の祈りが当たり前のものとなるように歩もう。ある学者が「キリスト者であることと祈るということとは同一のことなのである。」と言う。

Ⅰ.祈りと疑い(6節)
今日はヤコブの手紙の書き出しの部分が開かれてきた。私と神様との間に隔てはなしと、いつも晴々と言いたいが、私たちが祈る時に不安を覚え、疑いに囲まれる時もある。それでは不信仰であると言い切ることはできない。マルコ9:14~29に病気の息子を連れてきた父親が出てくる。イエス様とのやり取りで父親は自分を「不信仰なわたし」(24節)と言う。イエス様はこの父親を退けられず、息子を癒された。イエス様は父親の内に信仰を認められた。父親はイエス様に求め、イエス様の元へと行き、イエス様に悩みを訴えた。疑いや不安はあってもありのままで神様の前に出る。神様への信頼が私たちの祈りの姿である。

Ⅱ.祈りと無力さ(5節)
無力という言葉は否定的な響きの言葉である。祈りと無力さは切り離せない。私は力があって、何でもできるというのであれば祈りも、信仰さえも必要ないものになる。赤ちゃんは泣くことしかできない無力な存在である。母親は泣き方や泣き声で赤ちゃんの訴えが解る。全ての人の父なる神様は私たちの祈りを受け止めて理解してくださる。私たちが無力であることは神様の業を妨げず、無力だからこそ神様の業がそのままに表わされる。5節には知恵に不足している者は求めなさいと勧められている。私たちは神様の前にどんな不足も訴えてよい。無力さは、私たちを神様の力へと委ねさせる。

Ⅲ.祈りと信仰(6節)
祈りは信仰があるからこそ、ただの訴求ではなくなる。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか。」(ヨハネ11:40)。神様の栄光を拝させていただくことができる。しかし、私たちは自分に十分な信仰がないことを知っている。そこに疑いや恐れが生じ、私たちの信仰が試される。3節にあるように信仰によって忍耐が生み出されていく。忍耐によって完成へと導かれていく。イエス様は信仰による祝福をよく植物のたとえで語られた(種まきのたとえ、ぶどうの木のたとえ等)。植物の成長は目に見えないが、日光、水、栄養があるなら植物は自然に育つ。やがて葉が茂り、花が咲き、実がなる。忍耐を持った見守りが必要である。祈りの結果も信仰による忍耐が必要とされる。

ベルナルディーノはアッシジのフランシスコの最も有名な弟子である。彼が自分の家にフランシスコを招き、寝室での祈りの姿を見て弟子となった。フランシスコが神様の愛を深く受け止めて祈る祈りによってである。私たちの祈りも神様の愛が原動力にある。