聖 書 ルカ22:31~34、54~62節

(31)シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
(32)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
(33)シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
(34)するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
(54)それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。
(55)人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。
(56)すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。
(57)ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。
(58)しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。
(59)約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。
(60)ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。
(61)主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
(62)そして外へ出て、激しく泣いた。

 

キリスト教では一年間の礼拝の中で、イエス・キリストの苦しみと十字架の死を記念する特別な期間があります。日曜日を抜いたイースターの6週間前の40日間です。毎年水曜日から始まるので昔から灰の水曜日(Lent)と呼ばれますが、聖書に出てくる灰には象徴的な意味があります。一つは人間の最後は灰(死)なるということ、さらに旧約聖書には灰は懺悔や悲しみの表現としてあちこちに出てきます。今日の聖書箇所では、イエス様は捕まって大祭司の家に連れていかれます。十字架にかかられる前夜、イエス様とペテロの間で大きな事件がありました。そこにわたしたちは人間の弱さに対する神のいたわりと優しさを見ます。

Ⅰ.信仰の弱い者のために祈られるイエス様

皆さん、悪気はなくても思わずうそをついてしまって後悔したことはありませんか。日本では「うそつきは泥棒の始まり」(平気でうそをつくような人は、盗みも悪いことだと思わなくなってしまうことのたとえ)と言われます。

聖書では大うそを3回も繰り返してついてしまって、自分の弱さと愚かさがなさけなくて大泣きしたペテロがいます。彼はいつもイエス様の一番弟子を自認していました。最後の晩にイエス様が十字架予告をしたときも、ペテロはすかさず真っ向から否定して、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。(33)と言い切りました。その思いはペテロの正直な気持ちでした。ところが気持ちはあっても言動は裏腹でした。イエス様はペテロのなかにある弱さを見抜いて言います。「鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。(34)と鋭く言い当てました。このときイエス様はペテロを冷たく突き放したのではありません。イエス様は信仰の弱い者のために優しく「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(32)と言われました。ペテロがイエス様を知らないと何度も言い張ることで、どれほど自尊心が傷つき立ち直れなくなるかは明らかでした。

予告した通りにペテロはイエス様を裏切ったことで、信仰さえも失くしかねない危機を迎えます。この事件からわたしたちが学ぶ点は、イエス様は信仰の弱い者や間違って罪を犯した者をあざ笑ったり責めたりしません。それどころか私たちの弱さと失敗のために、イエス様自らがわたしのために信仰がなくならないように祈ってくださるのです。虚勢を張って強い信仰でなくても大丈夫なんです。

Ⅱ.私たちの弱さを憐れんでくださるイエス様

後半はペテロの失態です。弟子たちはゲッセマネの園で捕まったイエス様の後を見捨てて逃げ去ります。ペテロは遠くからこっそりイエス様についていきました。そしらぬふりをして、大祭司の庭でたき火にあたってようすをうかがいます。たき火の輪の中にいた女中は、ペテロをまじまじ見ると「この人も仲間だ」。と訴えます。あわてたペテロは打ち消します。間もなく別の男がペテロを指して「あなたもあの仲間のひとりだ」。と嫌疑をかけますが即座に打ち消します。こうなったら白を切るしかないと、1時間後に別の男にガリラヤの方言を指摘されたときもしらばっくれます。彼が言い終わらないうちに鶏が威勢よく鳴きました。ペテロはけたたましい鳴き声にふと我に返りますが、もはや取り返しのつかないことをやってしまいました。ペテロは遠くにいるイエス様の方を見ると「主は振りむいてペテロを見つめられ」(61)ました。イエス様のまなざしはどんな視線だったのでしょう。ペテロの弱さを軽蔑するまなざしでしょうか、ペテロの失敗を責めるまなざしでしょうか。おそらくそうではなく、イエス様は失敗する者の弱さをよく理解して、憐れんでくださるまなざしだったでしょう。

 

Ⅲ.弱さから立ち直るまで励ましてくださるイエス様

ペテロはイエス様と目が合うと矢も楯もたまらず「外へ出て、激しく泣いた。」(62)のです。かつて自分の命より大切だと大見得を切ったイエス様を3度も知らないと言いました。弱くて愚かな自分がみじめで情けなくゆるせなかったのです。しかしイエス様はそんな自分を責めることなく、こうなることは百も承知で捕まる前に「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(32)と言われたことを思い出して、今ならあのときの言葉がわかると、ペテロは人目もはばかることなく泣き明かしたのです。ペテロは自分の弱さに打ちのめされて落ち込みますが、彼は見事に立ち直ります。そのきっかけはイースター(イエスの死からよみがえり)とペンテコステ(聖霊降臨)でした。彼は聖霊を受けるとそれまでとまったく変わります。もはや自分のがんばりや自分自身をあてにしないで、自分を強くしてくださる聖霊によって、イエスが神であることを証ししてペンテコステに説教を聞いた三千人の人が救われました。(使徒2:31)

弱い自分はダメではありません。人間はだれも弱いからこそイエス様に頼り、聖霊に聞き従うことで、あなたもペテロのように主にあって強くされるのです。